『Brothers in arms 3』

  気持ちよく眠っていたところを佐山は、甲高い、もうすっかり馴染みになってしまった音に起こされた。
  五分か、十分か……どれぐらいの間かは覚えていないが、しばらくうとうととしていたようだ。膝の上から半分落ちかかったマニュアルを手に取り直し、表紙のタイトルに目をやった──『救急当直マニュアル』と書かれている。
  実際、佐山が当直に当たるのはこれが初めてではなかったが、最初の時から比べると随分と当直にも慣れてきたように思える。右も左もわからない状態の時には妙に目が冴えてしまって、今夜のようにうとうとすることもできなかったのだから。
  と、佐山を起こした音が、こちらのほうへと近付いてくるのに気がついた。
  救急車のサイレンだった。
  ピーポー、ピーポー、と間延びした音が群れを成すビルの向こうのほうから聞こえてきたかと思うと、当直室に設置された電話がけたたましく鳴り響いた。
  反射的に、しかし恐る恐る佐山は受話器を上げる。
「宿直室、佐山です」
  口を開くと同時に、受話器の向こうからせかせかとしたナースの声が聞こえてきた。
「佐山先生? 今から、胸痛の四十五歳の男性が搬送されてきます」
  佐山が何か答えようとしたところで受話器の向こう側でガチャン、と耳が痛くなるような音がした。返事をする前に電話を切られてしまったのだ。
  一瞬、呆然とした表情で受話器をまじまじと見つめる佐山だったがすぐに気を取り直し、当直室を後にした。



  当直室を飛び出した佐山は、ひとまずレントゲンと心電図の用意をしておくようにとナースに指示を出した。
  少しは慣れたとは言え、まだ不慣れなところの多い佐山だ。一通りの指示を出すことは出来ても、そこから先はどうしても手探り状態になってしまう。様子を見ながら少しずつ自分でこなすようには努力していたが、まだまだ気の回りきらないところもあるだろう。研修医という言葉の重みが、佐山に軽いプレッシャーを与えていた。
  サイレンの音が間近に迫ってきた。
  佐山は、ともすれば駆け足になりそうになるのを抑えながら、足早に搬入口へと急ぐ。
  着いたな…──そう思った瞬間、ふっ、と救急車のサイレンの音が止んだ。
  搬入口の扉を潜る前から、既に表は騒がしかった。救急隊員の短い会話と、車の開け閉めをしているのか、バタン、バタン、という騒がしい音が聞こえてくる。
  慌てて佐山が表へ出ると、患者はすでにストレッチャーに乗せられようとしていた。
  暗がりの中で佐山は救急隊員に向かって軽く会釈をする。
  すぐに救急隊員が駆け寄ってきて、経過報告を始めた。
「二時五十分頃から急に左胸の痛みが出てきて、十分以上経っても治まらないので三時八分に救急要請がありました」
  救急隊員の言葉を頭の中で復唱しながら、佐山は先を促す。
「バイタルはHR120、BP106/60、意識は清明です」
  淡々と続く報告に、佐山は意識を集中させる。隊員の言葉を一言も聞き漏らさないように全身で聞き入っているが、その間にも体は自然と動き、ストレッチャーごと患者を搬入しにかかっているもう一人の救急隊員に歩調を合わせている。
  ガラガラとストレッチャーのキャスターが音を立てるそのすぐ傍を、佐山は歩いていく。
  レントゲンと心電図の結果次第では、指導医の桐谷に声をかけなくてはならないかもしれない。自分がしっかりしなければ、桐谷にも迷惑をかけてしまうことになる。
  しっかりしなければ、と、佐山はいっそう身を引き締め、診察室に足を踏み入れた。



「うーん……」
  レントゲン写真と心電図を手に、佐山は低く呻いた。
  たった今、救急車で運ばれてきた患者は相変わらず胸が痛いと訴えている。しかし、どう見ても妙なところは一つとして見当たらない。レントゲンも心電図も、どちらも問題がありそうな様子には見えないのだ。
「……どうしよう」
  呟きと共に、溜息が洩れた。
  桐谷を呼ぶべきだろうか。佐山自身の見立てでは、患者に問題はありそうにない。だが、佐山が気付かないところで重大な見落としがあったなら……。それを考えると、指導医にあたる桐谷を呼ぶべきかとも思えた。
「でも、こんな時間だしなぁ」
  ちらりと壁にかかった時計に目を馳せると三時半を過ぎていた。こんな時間に桐谷を起こすのは、さすがに躊躇われる。
  どうしようかと考えながらも、なかなか電話をかける気にもなれない、そんな中途半端な様子で佐山は顎に拳を当てた。
  決断がつかないのだ。
  桐谷を起こしてしまえばいいのだが、時間が時間なだけに、呼び出しをかけるのは可哀想な気がしないでもなかった。仕事に忙殺され、おまけに右も左もわからない研修医のお守までさせられ、きっと疲れているはずだ。こんな時間に起こすのはあんまりと言えばあんまりだ。
  もう一度、佐山は壁の時計に目をやった。
  それから心電図をまじまじと凝視する。目を凝らし、隅々まで舐めるように眺め回すが、どこも悪いところは見当たらない。
「そうだなぁ……」
  ずり落ちかけた眼鏡をかけ直しながら、佐山は心電図を睨みつけた。
  うーん、と喉元まで出かかった呻きをぐっと飲み込むと、佐山はもう一度、顎に拳を当てた。



(H15.6.20)


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