病院の長い廊下を歩きながら佐山は、重苦しい溜息をひとつ、吐いた。
今夜は当直の日だ。
別に仕事が嫌なわけではない。ただ、苦手なだけで。
頼むから。今夜だけは何事もなく、穏やかなままで夜が明けてほしいと、佐山は切実に心の底から願った。
救急部の当直に当たってしまったことを不運に思いながら、佐山は白衣のポケットに手を突っ込む。
目下のところ、煙草が彼の精神安定剤替わりになっていた。
こっそりとトイレに隠れて吸うその一服が、どれだけ佐山の気持ちを落ち着けてくれることか。
もちろん、当直室で煙草を吸う者もいるし、後始末さえ自分でするのなら灰皿を自由に使うこともできる。しかし佐山には、人前で煙草を吸うだけの勇気がなかった。誰にも見られたくなかったのだ、喫煙している自分の姿を。
もう一度トイレに行こうかどうしようかと思案していると、廊下の向こうのほうからやってくる桐谷の姿が目に飛び込んできた。
「あっ、桐谷…さん……」
いつもの精悍な様子ではなく、ふらふらと足元のおぼつかない様子で、桐谷は廊下を歩いている。
「どうかしたんですか?」
声をかけながらも佐山は、桐谷がプンプンと酒のにおいをさせていることに気付いた。
ここにくる前にどこかで飲んできたのだろうか?
「いよぅ、佐山。喫煙タイムか?」
にこにこと笑みを浮かべながら、桐谷は尋ねかける。
しかしその目は、笑っていない。にこやかな桐谷のふたつの目は、昼間の恐ろしいほどに鋭い眼光の変わりに、今、鈍く澱んだ光を放っている。
いつもと様子が違うのも気になるところだ。
佐山は内心、首を傾げながら桐谷に返した。
「違いますってば」
桐谷は豪快にガハハと笑って佐山の背中をがしがしと叩いた。
「隠さなくてもいいんだぞ、今さら。昼間、こっそり隠れて便所の中で吸ってたのはお前だろう?」
単なる酒の酔いだけで、こんなにも変わるものなのだろうか、桐谷は。何がおかしいのか、それとも無理に陽気に振舞っているのか、桐谷はいつも以上に饒舌で、砕けた感じがした。
「いったいどうしたんですか、桐谷さん。変ですよ? それに……その、におい。頭からアルコールでもかぶってきたんですか?」
佐山が尋ねかけた途端に、桐谷の目つきがかわった。
睨みつけるような鬼の形相でギロリ、と佐山を見下ろすと、桐谷は不機嫌そうにふん、と鼻を鳴らした。
「てめぇのようなひよっこには、関係のないことだ」
随分と悪酔いしているように思いながらも、佐山は桐谷の肘を軽く持つ。
「相当酔ってますね、桐谷さん。足元がふらふらだ」
当直室で少し休んでもらったほうがいいかもしれないと、佐山は親切心から桐谷の腕を取ったのだが、桐谷はそうは思わなかったようだ。酔っているとは思えないほどの強い力で佐山の手を振り払うと、逆にがっしりと手首を捕まれてしまった。
「いい気になるなよ、ひよっこが」
鼻先がぶつかりそうなほどの至近距離まで顔を近付けられた佐山は、酒臭い息をはぁーっ、と顔に吹きかけられた。
桐谷は間違いなく酔っていた。いつもの桐谷らしからぬ、影のようなものが瞳の中にちらついている。
「あ……あの……」
どうしよう、どう言い訳したらいいだろうかとパニック寸前の頭の中で佐山は考える。今から謝っても、大丈夫だろうか。すみませんでしたとひとこと言ってしまえば、桐谷はそれで機嫌を直してくれる……だろうか? そんなことを考えていると、捕まれた手首がギリギリと痛んだ。桐谷が、掴んだ手に力を加えてきているようだ。
「痛っ!」
佐山が小さく叫んで後退りをした瞬間、桐谷はようやく我に返った。
「……すまん、どうかしているようだ」
口の中でぼそぼそと呟いて、桐谷は掴んだ手を離した。
佐山の手首には、桐谷の指の跡が赤くなって残っていた。
悪酔いしていた夜の桐谷が、実は大事にしていた患者を亡くしたばかりだったのだということを佐山が知ったのは、それから数日後のことだ。
その話を先輩医師から聞いた時、佐山は何となくホッとしている自分が心の内にいることに気付いてしまった。
何故だろう。
何故、桐谷のことが気にかかるのだろう。
自分に現場のことを教えてくれる指導医だからだろうか? それとも、ただ単に桐谷が怖いからなのか? それとも……もっと別の何か、違うものからくる心の葛藤なのだろうか?
患者を亡くした後の辛い気持ちを酒で埋める桐谷は、鬼の指導医・桐谷とはまったく異なる別の人物ではないかと思われるほどだ。これまでどちらかというと、桐谷が落ち込むところは佐山には想像できないことでもあったのだ。佐山の中で桐谷は、一つとしてミスをしない、完璧な……いわば自分たちよりも一つ上の階層にいる、神様のようなものだと思っていたのだ。
おそろしいほどに強気で、自信過剰気味にも思える指導医にも、そんな一面があったのだ。普段、患者に対してあまり感情を出さない桐谷が、そんな風に患者のことを思っていたということは意外だったし、ある意味、嬉しくもあった。
この人の人間的な面をもっと見てみたい、もっと、人間臭い付き合いをしてみたいと、佐山はそんな風に思い始めていた。
(H15.6.15)
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