『Brothers in arms 5』

  職員用の駐車場前に桐谷は車を回した。
  ぼんやりと桐谷を待つ佐山は今にも地面へ崩れ落ちてしまいそうな様子で駐車場に立ち尽くしている。更衣室での佐山もこんな感じだった。桐谷の言葉を聞いているのか聞いていないのか、言われるがまま、機械的に身体を動かしているような状態だった。
「乗れよ。送ってやるから」
  と、桐谷が声をかけても佐山はぼんやりとして動こうとしない。佐山の虚ろな目は赤く、今にも嗚咽がこみ上げてきそうだ。
  仕方なく桐谷は車から出て、佐山の身体を助手席に押しこんだ。シートベルトをかけるように注意をしたが、反応はなかった。桐谷はシートベルトもかけてやり、それからこっそりと溜息を吐いた。
「ちっ。シケた奴だな」
  軽く舌打ちをすると、桐谷はギアを入れる。
  車はゆっくりと駐車場を出て、そのまま桐谷の家へと向かった。
  佐山に尋ねたところで反応がないのは解っていたため、桐谷は尋ねることもしなかった。そのまま車は桐谷のマンションへと向かって走っていく。
  見慣れた病院周辺の景色から、閑静な住宅街へと景色が変わっても、佐山はじっと前を見ていた。
  それは桐谷が車を降りて、部屋へと上がるエレベーターに連れて乗せた時にも変わらず、佐山は黙って、じっと前だけを見ていた。わざとそうしているのか、桐谷の言葉に返事をすることもなく、目を合わせようともしない。いい加減に桐谷の苛立ちが募ってきたところでエレベーターが止まり、ドアが開いた。
「さあ、来い。来るんだ、佐山」



  部屋の中に引きずり込まれた佐山はどん、と部屋の上がり口に突き飛ばされた。
  脛をぶつけた瞬間、派手な音が上がる。さすがに痛かったのだろう、部屋の照明が自動で点灯した時、佐山はしかめっ面のまま脛をさすっていた。
「いつまでも落ちこんでいる暇はないんだぞ、研修生」
  ドアにもたれた桐谷は、腕を組んで仁王立ちになると、一言、言い放つ。
「でもっ……あなたがいなければ、あの患者さんは……」
  佐山が言いかけた瞬間、罵声が飛んだ。院内で鬼の桐谷と呼ばれるだけのことはある、腹に響く声だった。
「馬鹿野郎!」
  怒らせた、と、佐山はその瞬間、思った。怒らせてしまった。鬼の桐谷を、とうとう怒らせてしまった、と。
「結果的に助かっただろう。それをいつまでもうじうじと考えてるんじゃない」
  桐谷の言葉に佐山はしかし、震える声で反論した。
「でも……だけどあの時、僕が気付いていれば……」
  気付いていれば、もっと早くに対処できていたはずだ。そう思うと、自分の不甲斐なさを思い知らされる。自分はまだまだ半人前だ、と。
「あのままだったら、あの人を死なせていたかもしれない。僕が、あの人を……」
  止まったと思っていた涙が、再び佐山の目に溢れてきた。
「僕が……僕が…──」
  もっと自分がしっかりしていたらと、思わずにはいられない。佐山は嗚咽をあげながら、桐谷を睨みつけた。
  何かを言おうとして桐谷は、ふと口をつぐんだ。今は何を言っても佐山は聞き入れてくれないだろう。一見したところ佐山は温和で人当たりのいい青年だったが、これでなかなか頑固なようだ。だから桐谷は、言葉を口にするかわりに佐山を抱きしめた。
「もういい、喋るな。少しじっとしていろ」
  しばらくの間、二人はその場でただ黙って抱き合っていた。



  桐谷の腕の中が安心できる場所だと思ったのは、その時だった。
  相手は男の自分と同じ性の人間だが、抱きしめられた時の腕の優しさを、随分と後になるまで佐山は忘れられないでいた。
  時に冷たく、時に厳しく突き放す人でもあったが、それが故に抱きしめられた時の腕の温もりは佐山にとっては至福のものだった。
  この腕に、抱きしめられたい。優しくされたい。そんな思いが心の奥底で密かに育っていくのを、佐山は止められなかった。
  いや、もしかしたら止めたくなかったのかもしれない。
「おい、そろそろいいか?」
  心の中であれこれと考えている佐山をよそに、桐谷が言った。
「何が?」
  尋ねた途端、佐山は頬を軽くつねられた。
「いくらお前が男でもな、こうしていると何だか妙な気分になってくるんだよ」
  珍しく困惑したような桐谷の目許に、佐山はドキッとした。普段、職場では決して見ることのできない桐谷のプライベートな表情に、佐山の心臓がドキドキと脈打ち始める。
「ああ、そう言えば」
  そう言うと佐山は、うっすらと笑った。
「そうですね。僕も何だか、妙な気分になってきたみたいだ……」
  顔を見合わせると、どちらからともなく噴き出した。急に、笑いの発作がこみ上げてきたのだ。そうやって二人してしばらく笑っていた。笑いながら佐山は、心の中で渦巻いていた頑なな何かがすーっと溶けていくのを感じていた。
  と、同時に、もう一度だけ、佐山は桐谷の腕の温もりを感じたいと思っていた。
  ここで冗談にしてしまえば、明日はまた、二人とも指導医と研修医の関係に戻ることが出来る。
  それを理解していながら佐山は、じっと桐谷を見つめた。
  もしかしたら、心が弱っているところを桐谷につけこまれてしまったのかもしれない──



  佐山の眼差しに気付いたのか、桐谷はふと真顔に戻った。
「お前……あんまり色っぽい目で見るなよ。その気になったらどうするんだ」
  そう言いながらも桐谷の目は、佐山をじっと見つめ返している。
「いいですよ。今夜だけ、って約束してもらえるのなら」
  挑むように佐山は、桐谷の頬に手をやった。
「泣くだけ泣いたらすっきりしました。次から気をつけたらいいんですよね、桐谷先生」
  先生、と、佐山は強調して尋ねた。先ほどとはうってかわって清々しい佐山の表情に、桐谷はふっ、と口元を緩める。どうやら、いつもの佐山に戻ったようだ。どこかあどけなくて、無垢なところのある佐山に。
「さあな。どうしなければならないのかは、自分で考えるんだな」
  そう言うと桐谷も、佐山の頬に手をやった。
  何も言わずに桐谷が顔を近付けていくと、佐山は無意識のうちに身体を後ろへと引く。桐谷は素早く、佐山の唇に唇で触れた。軽く、歯のぶつかり合う音が二人の耳に届いた。



(H15.6.23)


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