『Brothers in arms 1』

  目の前に、桐谷の手があった。
  太くて、ごつい、男の手だ。
  佐山はぼんやりとその手に見惚れていた。
  力強く、無骨で、そのくせ繊細な作業を的確にこなす手。佐山の、どちらかというと軟弱な部類に入る手とは違う。桐谷の手は骨ばっていて、分厚くて、手の甲の側から見ると一見ほっそりしているようなのだが、てのひらから指にかけてじっくりと眺めていくと、グローブのようにがっしりとしている。
  男の手だな、と佐山は口の中で呟き、それからペロリと舌で指先を舐めてみた。
「うまいか?」
  尋ねられ、佐山は上目遣いに桐谷を見た。
  桐谷の手には、たった今、佐山が放ったばかりの精液がねっとりと付着している。
  青臭くて、苦くて……そして、ほんのりと酸っぱい自分の精液を桐谷の手から舌で丁寧にねぶり取りながら、佐山は返した。
「おいしくはないけれど、あなたの手が汚れてしまったから……」
  言いながら佐山は再び、桐谷の指に、てのひらに、ゆっくりと舌を這わせる。
  自分の精液を口にするのは初めてだ。初めての時に佐山は桐谷のものを無理矢理飲まされたが、それ以上に奇妙な感じがする。指の間や中指の関節の具合を舌で愉しみながら、佐山は上目がちに桐谷の目を見つめる。
  ちろちろと指の間を舐めると、桐谷は低く喘いだ。
  気持ちがいいのだろうか?
  どこが、どんな風に気持ちいいのだろうか。そんなことを考えながら佐山は、桐谷の中指を口の中に収めていく。ゆっくりと焦らすように、まるで桐谷のものを口に含む時のように、慎重に、慎重に、収めた。
「おい、指だけじゃなくて俺のマラもしゃぶってくれよ」
  頭上から声がかかり、佐山は顔を上げる。威圧的な、しかし優しい桐谷の眼差しと目が合い、途端に佐山の頬が朱色に染まった。
「……うん、わかった」



  佐山が桐谷と出会ったのは病院の救急部でだった。
  その頃、佐山は研修医だった。救急部へ配属されたところ、たまたまそこでの指導医が桐谷だったのだ。
  最初は怖い人だと思っていた。厳しい人だとも。鋭い眼差しでもって、人の心の中にまで遠慮なくズカズカと踏み込んでくる、そんな雰囲気の男だったのだ、桐谷は。
  桐谷から指導を受けるうちにしかし、佐山は彼の中の優しさを見出すようになっていった。
  もともと人当たりがよく、誰からも好かれるタイプの佐山のことだ。少々とっつきにくそうだからといって指導医に対してマイナスの感情を抱くということもなく、二人は急速的に、互いの距離を縮めていったのだった。
  相手のことを完全には理解していなくとも、お互い気の置ける、信頼できそうな相手だと思い始めていた。
  そう。
  楽天的にも佐山は、そんな風に思いこんでいたのだ。



  仕事の合間を縫って佐山は、桐谷の目を避けるようにトイレへ駆け込んだ。
  個室に飛びこみ、バタン、と音を立てて戸を閉めた。
  ほぅっ、と溜息が洩れ、それと同時に強張った背をドアに押しつけ、もたれかかる。
  右手を白衣のポケットに突っ込み、無造作に中をかきまわす。なにもなかった。軽く舌打ちをすると、左手でもう一方のポケットを探り、お目当てのものを探した。くしゃくしゃになった紙箱を鷲掴みにし、ポケットから取り出す。
  一本、よれよれになった煙草を取り出して、口にくわえた。
  こんなところを指導医に見つかりでもしたら、大目玉だ。研修医が何をやっているのだと、それこそねちねちと説教をされるに決まっている。
  佐山がトイレにくる途中、名前は忘れたが同期の研修医仲間から声をかけられた。お仲間には「急にもよおして」と言い訳をしたが、指導医にその言い訳が通じるかどうかも怪しいところだ。何しろ、佐山の指導医は桐谷だ。研修医仲間の間では鬼の桐谷と呼ばれているほど、怖いらしい。確かに、そうかもしれない──と、佐山は小さく笑った。
  どちらにせよ、見つからないようにするのが一番の手だろうと、佐山は思った。
  それから口にくわえた煙草にライターで火を点けると、深く深いその香りを吸いこむ。
  ふうっ、と息を吐くと、白煙がもわっ、と狭い個室の中に立ちこめる。
「はぁ……これぞ、至福の時」
  ぽつりと呟くと、後はただ黙って煙草をふかし続けた。
  しばらくして誰かが用を足しにやってきた。
  慌てて佐山は煙草を揉み消したが、気管支のほうに煙が入ったのか、むせ返ってしまった。目尻に涙をうっすらと溜め、けほけほと咳を繰り返していると、ドアの向こうから声がかかった。
「おい、佐山。火事にならんようにちゃんと消火しとけよ」
  桐谷だった。
  鬼の桐谷と研修医仲間から恐れられている彼はそう言うと、佐山が言葉を返そうかどうしようかと口をパクパクさせ躊躇っているうちに、鼻歌を歌いながらトイレを後にしたようだ。
  何とか咳のおさまりつつある佐山がふと気付くと、左手に持っていた煙草はまだ中のほうで燻っていたようで、ちりちりと指先が熱くなってきているところだった。どうやらさっき、桐谷がトイレに入ってきた時に慌てていたものだから、いい加減な消しかたをしてしまったらしい。
「熱っ……アチチチッ……」
  咄嗟に手を振り回すと、煙草はポトリと便器の中に落ちていった。



(H15.6.14)


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