『Brothers in arms 4』

  自動販売機の中に小銭がチャリン、と音を立てて落ちた瞬間、桐谷はふと気付いた。
  どこかで電子音が鳴っている。
  反射的にポケットを探った。ポケベルを取り出し、鋭い目つきでちらりと流し見る。
  それから何事もなかったかのように、自動販売機の取りだし口に転がり出てきた缶コーヒーを取り出した。
  蓋をあけ、ぐい、と一息に飲む。
  眠気でぼんやりとなっていた頭がすっきりと覚醒していく。
  頭が冴えていない状態で患者を診ることはできない。夜明までにはまだ少しだが、時間がある。今夜は急患も少なく、普段の夜勤に比べるとずっとのんびりとしている。しかしいつ、なんどき、何が起こるかわからない。研修医の佐山が当直に当たっているが、そろそろ何か言ってくる頃かもしれない。
  そう思って目覚まし替わりの一杯を求めてやってきたところに、ポケベルの呼び出しだ。
  予想外だったのは、佐山の呼び出しではなくナースの呼び出しだったことだ。
「ま、こんなこともあるさ」
  呟いて、空になったコーヒー缶をゴミ箱に放り込む。
  病棟へと続く廊下を桐谷は、足早に歩き出した。



  ナースの呼び出しの用事を済ませた桐谷は、ついでとばかりにぐるりと病棟を回ることにした。
  今夜、当直の研修医がどうしているのか、気になった。
  もし患者が来ていて診察をしているのなら、どうしているのか様子を見てやろうと、ほんの少し意地の悪いことを考えていた。
  すぐ目の前の角を曲がると、まっすぐに伸びた廊下の向こうが騒がしかった。
  桐谷が目を凝らすと、救急の搬入口に今はサイレンを消した状態の救急車が停車している。
  おや、と思い、診察室を覗くと、心電図を前にした佐山が困惑した様子で佇んでいるところだった。
「よ、何やってるんだ、佐山先生」
  ふざけ気味に桐谷が声をかけると、こちらを向いた佐山はほっとしたように口元を緩めた。
「桐谷先生……」
  佐山の困った顔を見るなり桐谷は、つかつかと診察室に入ってくる。さっと心電図を手に取ると、桐谷は恐ろしいまでに真剣な眼差しでそれを凝視した。
「どんな様子だ?」
  隙のない目つきで、桐谷は心電図から何かを読み取ろうとしている。
  佐山が見たところ、患者に問題はなさそうなのだが、いったいどこに問題があるのだろうか。佐山はじっと、桐谷の様子を見つめていた。
「おい、心カテの検査の用意だ」
  桐谷はそう言い捨てると、あちこちに連絡を取り始める。
「えっ……心カテって……」
  状況がわからず呆然としている佐山に、桐谷の罵声が飛んだ。
「馬鹿野郎、何ボーッと突っ立ってんだ!」



  血管造影室では、循環器内科の医師達によって、心臓カテーテル検査が行われていた。
  佐山はそれを、ガラス越しにただじっと見ていることしかできなかった。
  患者の状態に気付かなかった自分の未熟さ、至らなさに、心底嫌気がしてくる。
  いったい自分は、これまで何を学んできたのだろう、何を見てきたのだろうかと憤りを感じずにはいられない。
  拳を握り締めた佐山は、ぎり、と唇を噛み締め、患者を見ていた。
  そうすることで自分の馬鹿さ加減を思い知ればいいのだと、そんな風にある種、自虐的な気持ちで佐山は思った。
  そうやって、今日の自分がどこで間違いを犯したのかを理解しなければならない。自分のどこがまずかったのか、どこが問題だったのか、理解しなければ。
  そうやって皆、成長していくのだ。
  医師として、人間として。
  そうやって、堪えて、堪えて……もうこれ以上は我慢できないというところで佐山はその場を後にした。
  眼鏡の向こうに、涙がじわりと滲んでいる。
  誰にも見られないように、佐山は廊下の隅に寄って眼鏡を外した。そっと涙をぬぐっていると、後ろから誰かが追ってくるのが眼の端に見えた。
  少し行ったところで佐山は、桐谷に腕を掴まれた。
「──…おい、なんで俺を呼ばなかった?」
  責めるような調子ではあったが、いつものように頭ごなしに怒鳴り飛ばすこともなく、どちらかというと桐谷は感情を堪えているような様子だ。てっきり、怒鳴られ、なじられるのだと思っていた。だが、その桐谷の抑え気味の態度が今は、佐山には酷く辛かった。
  佐山が唇を噛み締めてじっと立ち尽くしていると、桐谷は追い討ちをかけるように言葉を続けた。
「俺が来てなければ患者を死なせていたぞ」
  はっ、と佐山の目が見開き、桐谷を正面から見据える。
「死なせていた……?」
  掠れた声で、佐山はおそるおそる呟き返した。



「死なせていた……桐谷先生がいなければ、あの患者さんは……」
  呆然とした様子で、佐山は繰り返した。
  何故、気付かなかったのだろう。何故、自分は見つけてあげることができなかったのだろう。
  そう思うと不意に、堰を切ったように涙が溢れてきた。
  頭の中で繰り返されるのは、「何故」の二文字。
  目の前に桐谷がいるというのに、佐山は子供のように泣くことしか出来ない。自分では止まれ、止まれ、と思っているのだが、涙腺が緩んで涙が止まらなくなってしまったようだ。
「お……おいおい、泣くなっ。こんなところで泣くな!」
  桐谷は慌てて、佐山の腕を引き寄せた。
「お前、今日はこれでもう上がれ。送っていってやるから」
  桐谷の声がした。
  佐山はこくりと頷くと、すん、と鼻を啜った。



(H15.6.22)


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