魔界の風・前編

  魔界の風に吹かれたくて、コーシャは深くて暗い洞穴の中から這い上がってきた。
  水気のないぱさぱさの赤い髪に、乾いた血色の瞳。裸体にボロをまとっただけの簡素な姿。何よりも目を引くのは、その山犬のように尖った大きな耳と、鋭く伸びた爪。人ならざるその姿は、まさしく魔界の生き物。
  コーシャは人と犬との間に生まれた、魔界の子だった。
  魔界の風はコーシャにとって大事なものだ。
  人が住まう世界では滅多に吹くことのない魔界の風は、コーシャに懐かしい魔界を思い出させてくれた。
  生暖かく、湿気った魔界の風。血のにおいに満ち満ちた、妖しの空気はコーシャの心を生き返らせる。自分が魔界の生き物なのだということを思い起こさせてくれる、唯一のもの。
  コーシャはしばらく風に吹かれると、そのまま再び、洞穴の底へと戻っていった。
  長居をすれば、人に姿を見られる危険も大きくなる。コーシャがここに棲みついているということを、人間どもは知らないはずだ。
  ──カラン、と。
  コーシャが消えていった洞穴の奥から、小さな、鋭い音が一つ、響いてきた。
  その音を耳にする者は、誰一人としていなかったのだが。



  セヴァは上級妖魔だ。
  魔界に君臨する妖魔の中でも、もっとも力ある妖魔の一人。
  つい先頃、上級妖魔の一人が消滅したため、魔界にはちょっとした混乱が訪れていた。というのも、消滅した妖魔の力を継承した者が、取るに足らない下級妖魔だったからだ。
  通常、上位の妖魔が消滅すると、その妖魔に属する妖魔の中で次位の者がその力を継承することになる。しかし今回、力を継承したのは、消滅した上級妖魔の夜伽を務める下級妖魔だった。上級妖魔たちの間からだけでなく、消滅した妖魔に属していた下位の妖魔たちからも不満の声が洩れ、魔界には混乱の嵐が吹き荒れた。
  その騒乱がようやく落ち着いてきたところに、≪それ≫はやってきた。
  魔界と人間界との境界を破って侵入してきた何者かのせいで、セヴァの領土は再び混乱に陥ってしまったのだ。
  深い深い溜息を吐くと、セヴァは大きな姿見を覗き込んだ。
  白い肌に黒い髪。猫の目のように大きな深い鳶色の瞳。性を持たない妖魔にはよくあることで、セヴァは両性を併せ持っていた。
  憂えるセヴァは、まるで人間の女のような表情をしている。そう。女特有の身体の曲線の穏やかさ、美しさに焦がれ続けたセヴァは、自分の容姿を女に似せて変化させたのだ。だからといってセヴァが完全なる女であるというわけでもないのだが。
  このところセヴァの領土を脅かしているのは、おおよそ人間らしくない風貌の人間だった。滅多に姿を現さず、妖魔のように闇の中を徘徊し、うろつき回る人間。何人かの妖魔が面白がってちょっかいを出しに行ったところ、一人は決して癒えることのない致命傷を負わされ、もう一人は喉を裂かれて消滅したと聞く。人間にしては異様な力を備えた生き物だと、セヴァは思った。
「──どちらにしても≪それ≫を何とかしなければ、私の領土に安寧の日は来ないということか……」
  低くざらついた声でセヴァは、ぽつりと呟く。
  獣の遠吠えのような声が山間の向こうから風に乗って流れてくる。セヴァはそっと息を殺し、聞こえてくる声に耳を傾ける。
  動きを止めて、耳を澄ますと、魔界と人間界との境界を彷徨っていたセヴァにはいろいろな音が聞こえてくる。
  さらに全身を石のように硬直させ、神経を耳に集中させる。
  風の音や、葉ずれの音、川のせせらぎに混じって聞こえてくるのは、人間たちの声と、彼らが飼う家畜の鳴き声だ。
  そして……それらの音に混じって、≪それ≫の遠吠えが聞こえてくる。
  行かなければ。
  行って、≪それ≫の正体を確かめなければ。
  セヴァはすぐさま風に乗り、気体となって遠吠えのする方角へと意識を駆った。上級妖魔のセヴァには造作もないことだった。
  初めセヴァは、≪それ≫を岩と見間違ったのかと思ったほどだ。
  ごつごつとした赤い乾いた土の続く荒野で、≪それ≫はぽつりと佇んでいた。
  じっと虚空を見つめる、どこか寂しげな影一つ。
  セヴァはこっそりと風に乗って≪それ≫の間近に迫った。
  見た目はそう悪くはないようだ。パサパサの髪は赤茶けた荒野の色。血の色の目に、浅黒い肌。
  人と獣の血が混じり合って生まれた、半妖の血筋。
  触れてみたいと、セヴァは思った。
  この手で、触れてみたい。そして、我がものにしたい、と。
  ふと、≪それ≫の眼差しが鋭く光る。じっと、何も見えないはずのセヴァのいるあたりを睨み付けている。
  くんくん、と鼻を鳴らしながら≪それ≫はあたりの空気を嗅ぎ分けている。
  嗅覚はそれほど鈍くもないのかもしれない。それに、勘のほうも。獣の血が流れているせいだろう。
  悪くはない。
  セヴァは、力のある者が好きだ。
  たいていの妖魔がそうであるように、セヴァもまた、強大な力を持つ者に惹かれる傾向があった。
  どうやって連れ帰ろうかと思案しながらもセヴァは、≪それ≫を見つめている。
  ≪それ≫は不審気な表情で虚空を見つめている。セヴァがいるあたりを真っ直ぐに、凝視している。
「我がものにしてみたい」
  セヴァは風の中から実体を作り上げた。
  ピンと立った二つの耳。艶々とした豊かな銀色の毛並みの狼が、何もない空間から突如として≪それ≫の前に現れた。



  コーシャはじっとその獣を見つめていた。
  銀色のふさふさとした毛。淡いグレイの目は穏やかに、コーシャを見つめ返している。
  ぎこちない動きでコーシャは、獣のほうへと近づいていく。
  仲間になりたいと、思った。
  いや、そうではない。
  この銀色の獣を目にした瞬間、コーシャはその身体から立ち上る雌の匂いを敏感に嗅ぎ取っていた。征服して、自分だけのものにしたいと、そんな風に無意識のうちにコーシャは思っていたのだ。
  すぐに、ふざけた調子の追いかけ合いが始まった。
  挑発するように銀色の獣はコーシャの周りをうろついた。コーシャは自分が本気でいることを悟られぬようにこっそりと、獣との間合いを縮めていく。
  追いつ、追われつが繰り返される。
  赤茶けた荒野をコーシャは、銀色の獣の尻を追って駆け抜けた。
  乾いた砂の大地がゆっくりと、魔界の風景に溶け込んでいく。茨の茂みを踏みしめ、皮膚のあちらこちらにできた小さな引っ掻き傷から血を流しながら、コーシャは魔界へと足を踏み入れた。
  コーシャはそれと知らずに半身に流れる血の故郷に、生まれて初めて立っていた。
  身体中にピリピリと電流のようなものが流れた。訳のわからぬ高揚感に包まれ、身体中に新しい力がみなぎっていく。
  嗅覚と聴覚がいっそう鋭く感じられる。
  何故だろうと思うよりも何よりも、獣の後を追いかけることに必死で、気付かぬうちに迷路のような不思議な作りの館に入り込んでしまっていた。
  ふと見ると、獣ではなく女が、コーシャの目の前に立ち尽くしていた。
  透けるような白い肌に、闇の色をした長い髪。深い鳶色の瞳は大きく、まるで猫の目のようだ。
「お遊びはここまでだ」
  女はざらついた低い声でそう言った。
  華奢な長い指で女は、コーシャの厚い胸板に触れた。
「お前はたった今、この瞬間から私のものだ。ここまでついてきたお前自身の浅はかさを悔やむがいい」
  女はそう言うと、コーシャの胸板に指を突き立てた。信じられないことに女のたおやかな指はコーシャの皮膚を突き破り、その下の肉にずっぷりと食い込んでいく。
「……お前……セヴァルヴェイユ……お前は、俺をどうするつもりだ……」
  コーシャは初めて、声を出した。
  もう長いこと喋らなかったのに。人間たちと距離をとって暮らすようになってから一言も言葉を発したことのないコーシャは、驚きのあまり声に出して呟いていた。
「おや、喋ることが出来るのか」
  と、女は片方の眉をピクリと跳ね上げて返す。
「見かけほど無知ではないようだな」
  威圧的な態度でそう言われても、コーシャは何故だか腹が立たない。
  魔界に足を踏み入れてからの短時間で、コーシャは確実に変化していた。コーシャ自身、そのことをはっきりと認識している。急に視界が開けたような感じがしたと同時に、今までならば理解できなかったような色々なことが解るようになったのだ。
「俺は……お前のものなのか?」
  コーシャは尋ねた。
  女の指先は尚もコーシャの肉をまさぐっている。神経を引っ掻き回されるような感触に、コーシャの眉間がさっと険しくなる。
「そうだ。私のものだ」
  女はそう答えると、おもむろにコーシャの肉の中からずるり、と指を引き抜いた。



END
(H14.6.22)
(H24.6.14改稿)



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