目隠しの白煙が夕暮れ時の森を包み込む。
イサリの鼻から、そして口から、容赦なく煙が忍び込んでくる。
目も喉もヒリヒリと痛んだ。
「よし、巧いぞ」
源伍の声がすぐ近くで聞こえたような気がした。
それから、イサリの身体は担ぎ上げられ……その瞬間、傷口がひきつれてイサリは小さな悲鳴を上げた。
「少し我慢しろ。安全な場所へ連れて行ってやろう」
カゲハは目の端で、イサリが源伍に捕まるのを見ていた。
何も出来ないどころか、同じ忍び者に道を塞がれ、立ち往生している自分があまりにもみっともなくて、ただただ唇を噛み締めるより他なかった。
「あれが噂に聞くお両の子か? お両は男と闘っても引けをとらない優秀なくノ一だったと聞くが、あの細っこいのは、ありゃ駄目だな。やはり、奴隷として生きてきたような奴に、逃亡は無理だったんだ」
にやにやと下卑た薄笑いを浮かべて、男は言った。
「なんだと?」
目を吊り上げて、カゲハが男のほうへ一歩、にじり寄る。
「知らなかったのか? あの餓鬼は奴隷なんだぜ? 男のブツを銜えてよがる、出来損ないの男女……」
「──やめろ!」
男の言葉を遮って、カゲハは叫んだ。
「やめろ。それ以上は言うな」
言われなくても知っていた。
もうずっと以前からカゲハは、気付いていた。
自分を熱心に見つめるおどおどとした眼差しがあるということに。色白で華奢な少年の名こそ知らなかったものの、カゲハはいつしか彼のことを心の片隅に留めるようになっていた。彼の眼差しがないと不安になり、自分から探しに行ってしまう。それなのに改めて見つめられると、知らん顔をして何か別のことに興味があるような顔を作ってしまう。
里を逃げ出そうと決心したのも、彼──イサリのためだった。
イサリが、好きでもない相手に抱かれ続けるのをもうこれ以上見ていたくなかったのだ、カゲハは。
自分だけのものにして、大切に大切に守っていこうとカゲハは心に決めていた。もちろん、そんなことを口に出して言えるはずもなかったが。
「……おや、本気だったとは」
目を細めて、男は言う。手にした忍刀を鞘から抜くと、鋭利な銀色の刃に舌を這わせた。 「手に手を取っての逃走か?」
煽るように男が尚も何か言いかけた瞬間、カゲハは鎖分銅を宙へ放った。四方に枝分かれした鎖が勢いよく宙に舞い、男の頭上で半分に別れる。男の注意がそちらへ向いた一瞬の隙に、カゲハは互いの間合いを詰めた。
「俺はいつだって本気だ」
言うが早いか、着物の袖の中に隠し持っていた楔で相手の脳天をかち割った。
「ヒッ……!」
闇を仰ぎ、カッと目を見開いたまま、男は息絶えた。
カゲハが男の頭から楔を引き抜くと、噴水のように血飛沫が上がった。
イサリが目を覚ますと、あたりは真っ暗だった。
誰もいない。
人の気配はどこにもなく、自分一人しかいないのだということにイサリは気付いた。
いったいいつから自分はここにいるのだろう。いったいどれぐらいの間、ここでこうして寝ていたのだろう。そんなことを考えてみる。肩と掌の怪我は痛まなかったが、そのかわりに全身が痺れていた。
深く息を吸うと、かび臭い藁のにおいが鼻をつく。
突然、コトリと音がして、目の端に薄明かりが見えた。
ぼんやりとだが、自分のいる場所が見えてくる。どうやらイサリは廃屋の中に寝かされているようだ。
「……イサリ?」
カゲハの声がした。
目を凝らすと、薄明かりの向こうに源伍の姿と、さらにその後ろにカゲハの姿がぼんやりとあった。
「──カゲ…ハ……」
掠れた弱々しい声がイサリの喉から出る。
キイィ、と何かが軋む。源伍が戸を閉めたのだ。
「無事でよかった」
イサリの姿を目にしたカゲハは大股に歩み寄ると、イサリのすぐ側に胡座をかいて座った。
「……カゲハこそ、無事で……よかった……」
これは夢なのだろうか。心配そうに覗き込んでくるカゲハの頬の輪郭を視線でなぞりながら、イサリは思った。
「お両の面影に免じて、今回だけは見逃してやる」
苛立ちを含んだ源伍の声に、カゲハは身体を強張らせる。
「この先、里からの追っ手はさらに厳しくなる。先刻のような追っ手は一撃で倒せ。それが出来ないなら、命はないものと思うがいい」
源伍のその言葉は、カゲハに言ったものなのか、それともイサリに言ったものなのか。
二人が黙りこくっている間に、源伍は背を向けて廃屋から出ていった。イサリは、もう二度と彼とは会うことはないだろうということに気付いていた。二人が生きている以上、決して会うことはないはずだ。
「──怪我はどうだ?」
源伍の気配が途切れてしまってから、ようやくカゲハは尋ねかけた。どこか決まり悪そうにしているのは、きっと気のせいではないはずだ。
「今は、痛みません」
と、イサリ。
思ったよりもしっかりとしたイサリの言葉にカゲハはほっと安堵の溜息を吐いた。
それから、ふと思い出したかのようにイサリの髪をくしゃくしゃと撫でつけると、優しく微笑んだ。
「そうか。あいつが、お前の怪我の手当をしてくれたんだ。今は薬が効いているから、ゆっくり眠っておけ」
目覚めるごとの怪我の手当が朝晩になった。
熱っぽく気怠かった身体がしゃんとしてくると、イサリは起き上がって何かにつけて用事をしたがった。
じっとしているのは性に合わないからと言って、裏の井戸から水を汲んだり、自分たちが休んでいる場所の掃除をしたりと忙しそうに身体を動かした。
そうしている間だけは、自分がカゲハのお荷物ではないと実感することができたのだ。
昼間、カゲハが山の中で狩りをしている間、イサリは廃屋の近辺で木の実を拾ったり薪を拾ったりした。どんな小さなことだろうとイサリは、カゲハの役に立ちたかった。自分がお荷物だと思われないように、とにかく自分でできることは何でもやった。
夜になるともちろん、カゲハに抱かれた。
自分の身体でカゲハをつなぎ止めておくことができるのならと、喜んでイサリは身体を差し出した。
カゲハはそんなイサリの心中に気付いていた。もうずっと昔からイサリが自分を見ていたことさえも知っていたカゲハだ。気付いていたとしてもおかしくはないだろう。
だからカゲハは、イサリの調子を見て抱いた。
イサリが不安を覚えないように。
イサリの傷が完全に癒えるまでの間、二人は廃屋での隠遁生活を続けるしかなかった。
傷の痛みはまだ少し残っていたものの、源伍から分けてもらった薬がよく効いたのか、イサリは随分と良くなってきていた。
生活に支障はほとんどないように見えた。
カゲハは毎日のように山で小動物を仕留めてきたし、廃屋のある敷地内には井戸があった。井戸水は澄んでいて、イサリとカゲハの二人が飲み水や生活に使う程度なら充分間に合った。
誰もいない場所で、二人きりの生活。
手始めに二人で力を合わせて廃屋の屋根を直した。イサリはまだ肩の調子が完全とは言えなかったから、カゲハの指示に従って釘やそう重くない杭を取っては渡すぐらいのことしかできなかったのだが。
夜になると、カゲハはイサリを抱いた。
時折、肩の痛みを堪えながらイサリは激しい行為を望んだ。完全には癒えない怪我に対する不甲斐なさと、逃走の旅に戻ることが出来ない自分に対して焦りのようなものを感じてのことだった。
二人の新天地は、まだ遠い。
近くて、それでいて尚も遠い場所にある、新天地。
新しい生活を考えて、二人は抱き合っていたのかもしれない。
満たされない心の隙間を埋め合うように、しっかりと。
いつしか山の景色は秋から冬に変わるところだった。
秋も深まったある日のこと。
すっかり抜け落ちて裸になった木々の間からちらほらと舞い落ちる白銀の粉を見て、二人はこれからやってくる冬をひしひしと肌で感じずにはいられなかった。
それと同時に、新天地への憧憬が二人の胸の中に溢れかえる。
どちらからともなく「行かなければ」という想いを言葉にし、二人は穏やかな束の間の仮の住まいを後にすることにした。
(H14.10.11) (H24.3.14加筆修正)
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