イサリは裸足で山の中を進んでいた。
  今夜、月が雲の中に隠れた一瞬の隙をついて、里を逃げ出してきたのだ。
  普段はほとんど使わない足の裏の皮がめくれて血が滲んでいる。
  追っ手が少し本気を出せば、イサリなんてすぐに連れ戻されてしまうはずだ。いや、その前にきついお咎めを受け、その上で殺されてしまうのかもしれない。
  イサリの仲間が人為的に受ける殺傷や病気以外で今の生活から抜け出すことは、まずないと言っていいだろう。
  仲間──その言葉を胸の中で繰り返し呟き、イサリは唇の端をぎりりと噛みしめた。
  イサリのいるところでは、同じ仲間でも上下関係には大きな差があった。
  頭領を先頭に、副頭領、三人の参謀、そしてそれぞれの班長がいて、草がいる。イサリは下忍以下だから、生きるためには自分よりも上位にあたる下忍や中忍、時には上忍にまで身体を奪われることが多々あった。
  そんな生活が嫌になったのは、好きな人ができたからだ。
  イサリの憧れの人は下忍だったが、若くして中忍になろうかというほどに力のある忍び者だった。
  そう。
  忍び者。
  イサリよりも賢く立ち回っている者たちは、自分たちをも含めた仲間のことを忍び者と呼んでいる。
  影に息づき、闇に舞う者たち…──それがイサリたち忍び者だった。



  忍び者の里からしばらく行ったところに、水汲み場となる川がある。
  夜道を足早に歩いてイサリは川へ出ると、カラカラに乾いた喉を潤した。
  黒く輝く流れの中に顔ごとつっこんで貪るようにして水を飲んでいると、背後から声がした。
「おい、そんなにがっついて飲むと腹にくるぞ」
  生命力に溢れる力強い声は、イサリの憧れの人の声だ。
  ビクリと肩を震わせて、イサリは顔を上げた。
  額のところで切りそろえた黒々とした前髪が、水に濡れてぺたりと皮膚に張り付いてくる。
「お前、よそ者か？　みかけない顔だな」
  彼はそう言って、イサリのほうへと近付いてくる。
「い……いえ、この先の里の者です」
  消え入りそうなか細い声で、イサリは告げた。
「この先の里……ということは、お前、俺と同じ忍び者か？」
  穏やかさの中に警戒心をうまく隠して、彼は尋ねてくる。
  イサリは小さく頷くと、彼の顔をじっと見つめた。闇の中で彼の双つの瞳だけが白く光を放っている。
「カゲハさんのことは知ってます。いつも見てたから……」
  どこから、とは言わなかった。言ってしまえばカゲハに軽蔑されるかもしれない。その思いだけでイサリの中はいっぱいだった。
「へぇ？　見たことのない顔だが……」
  驚いたように片眉をピクリとつり上げ、カゲハは呟いた。
  近くで見ると男らしいカゲハの体格は、もうすっかり大人の体格をしていた。骨格が太いのか、腕も足も、がっしりとしている。頭一つ分小柄なイサリには、羨ましい限りだ。
「今時分、こんなところにいていいのか？」
  と、イサリの額の髪のほつれに指を絡めながらカゲハは尋ねかけてくる。
  イサリはほんのりと頬を赤らめて、下を向いた。
  月の翳りがこの頬の赤味を隠してくれればいいのにと、心密かに願いながら。
「言えないのか」
  咎めるような感じはしなかった。そのままカゲハは親しげな笑みを浮かべてイサリの肩を軽く叩いた。
「俺と一緒に戻るか？」
  そう問われて、イサリは頷きそうになる首を慌てて横に振る。
「いえ、もう少しここに……しばらく一人きりで夜空の様子を見ていたいのです」
  窺うようにカゲハの顔をちらと見ると、彼は何かに気を取られているような、それでいてどこか怖いような鋭さを秘めた表情でじっとイサリの背後に続く木立を睨み付けていた。
「──お前……里で何かやらかしたのか？」
  低く、囁くようにカゲハは問う。
  イサリは一瞬、怯えたような眼差しでカゲハを見上げた。
「わたしは……ただ、夜空が見たくて……」
  本当のことだ。ほんの少しだけ、夜空を見る時間が欲しかったのだ、イサリは。それをあの中忍は禁じた。ほんのわずかな時間だというのに、月を見るよりも伽の相手をすることを強要したのだ、あの男は。だから逃げ出した。それだけのこと。
「ふぅん」
  解っているのかいないのか、カゲハは興味のなさそうな様子でちらりとイサリを再度じろりと見下ろしてから、右手を軽く動かした。
「……狙われてるってことは、解っているのか？」
  言われて初めて、イサリは気付いた。
  背後の木々の間に、崩れ落ちる影があることを。
  イサリは弱々しく頷いて、カゲハを見上げることしか出来なかった。



「お前、撒きびし持ってるか？」
  走りながらカゲハは尋ねかけた。
「え……あ、はい……持って、ます……」
  と、イサリは空いているほうの手で懐を探った。
  竹筒に中に入った撒びしは、夕べ夜這いにやって来た好色な中忍から駄賃代わりにもらったものだ。惜しげもなくイサリは、竹筒をカゲハに渡す。
「よし、お前は木の上に登って待っていろ」
  カゲハが言い、イサリは大人しく黙って言われるがままに木に登った。
  それからしばらくの間、カゲハはあちこちを行ったり来たりした。
  草むらの中に点々と撒きびしを敷き詰めると、ちょっと目には解らないように木の葉で隠していく。しかしどう見ても、その作業は雑なようにしか思えない。木の上からカゲハの様子を眺めながらイサリは、不安そうな面もちで彼の一挙一動を眺めていた。
「すぐに戻るから、ここで待っていろ」
  カゲハは撒きびしを撒き終えると、そう告げて川のほうと戻っていった。
  所々に撒きびしを落としては、自分たちの足取りがはっきりと解るようにわざと目に付くような痕跡を残していく。
  木々の向こう、川岸へと来た道を戻っていくカゲハの姿をイサリはじっと見つめている。
  もしかしたら自分は、里の仲間達のところへ連れ戻されてしまうのかもしれない。そんな風に思いながらも何故だか、カゲハのことを疑う気にはなれないかった。
  憧れのカゲハのすることだ。何か考えがあってのことだろうと、イサリは辛抱強くカゲハが戻るのを待った。
  しばらくしてカゲハは戻ってきた。
  イサリに木の上から下りてくるようにと命じると、そのまま川へと引き返す。
「さあ、流れに入るんだ。ただし、服は濡らすな。ああ、それと音も立てるなよ。そっと入るんだ」
  有無を言わさぬ強い声に、イサリはゆっくりと着物を脱ぎ始めた。その間にカゲハは、どこからか筏になりそうな板きれを拾ってきていた。そこへ、柄の部分に自分の印を入れた忍刀を無造作に乗せる。
「どうするのですか？」
  不思議そうな表情でイサリは問いかける。
「川下へ向かったように見せかける。ここから一番近い村は川下にある村だからな。あそこは交易も盛んで人の出入りも多いし、逃げるにはうってつけの場所だと思う」
「では、川下へ逃げるのですか？」
  と、イサリ。
  カゲハは首を横に振って、にやりと口の端を歪めた。
「この先の尾根を越えて、隣の領地へ入る」
  その言葉を噛み締めるかのように、イサリは小さく頷いた。
  それから二人は川の中にゆっくりと入っていった。イサリは水に流されないようにしっかりとカゲハの手を握り締めた。着ていたものはすべて脱ぎ、一纏めにして頭の上に乗せている。
  二人は黙って川を渡った。
  黒くて冷たい流れの川に、白く輝く月が降り注ぐ。時折、美しい光を反射する川の中で、イサリは不意にぐい、とカゲハに手を引かれた。
「着いたぞ、上がれ。水気を落とすのを忘れるなよ」
  二人してずぶ濡れのまま、川から上がった。カゲハは自分の着物で躊躇うこともなく身体を拭う。イサリもそれに倣い、同じように着物で身体の水気をふき取った。湿った着物を身に着けるとべたりと肌に張り付いてきたが、気にしている余裕はなかった。
「俺についてこい。余計なことは一切喋るな」
  厳しい男の顔つきで、カゲハは言った。



  湿った着物のまま、二人は手を繋いで小道を歩いていく。
  川に入った時点でイサリが裸足で歩いていることに気付いたカゲハは、着物の端を千切って血豆の出来た足に巻いてくれた。そうすることでイサリの足は傷付かなくなるし、血の跡や足跡も残らなくなる。
  カゲハの手は温かく、イサリに安心感を与えた。
  ──この人と一緒にいれば、大丈夫だ。
  そんな安易な思いがふとイサリの中に込み上げてきて、歩きながら小さく首を横に振った。
「どうした？」
  立ち止まり、カゲハはイサリを振り返る。
「もう疲れたのか？」
  尋ねられたイサリは、困ったような表情でカゲハを見上げる。
  自分が、カゲハに何もかもを任せきっているということを悟られたくはなかった。上辺だけで否定したとしても、自分自身の心は否定出来ない。イサリは、憧れていた生身のカゲハに今まで以上の思いを抱き始めていた。
「足が……痛くて……」
  弱々しいイサリの声にカゲハはくすっ、と笑った。
「もう少しだ。我慢しろ」
  その声に励まされて、イサリは歩き通した。
  小道をぐるりと回って川岸に再び出る。それから別の流れを伝い歩き、そう大きくはない滝壺へと辿り着く。
「さあ、もう少しの辛抱だ」
  それまで押し黙ったまま歩いていたカゲハが不意に、自分自身に言い聞かせるかのように呟いた。
「ここの滝は裏側に洞窟があるんだぜ」
  悪戯っ子のようにイサリの耳元に顔を寄せて、カゲハは言った。
  イサリはぎゅっとカゲハの手を握り返しす。
「滝の裏側に入れば少しは休むことも出来るだろう」



  激しい水飛沫を頭から浴びながら、イサリとカゲハは洞窟に転がり込んだ。
  中はひんやりとしていて、風通しがよかった。岩にびっしりと生えた光苔のおかげで洞窟全体が薄ぼんやりとしている。
「さ、こっちへ来な。すぐに身体を温めないと、風邪をひくぞ」
  辺りに散らばっていた木片を手早く集めるとカゲハは火打ち石で火を熾した。すぐに火の粉が枯れ枝に移り、ぼそぼそと燻り出す。
「ほら、何やってるんだ。こっちへ来いよ」
  命令口調でカゲハが言い、イサリは黙って彼に従った。
  まだ燻っている火の側に行き、カゲハの隣にちょこんと遠慮がちに腰を落とす。
  カゲハは岩の間をうろちょろと這い回る鼠を素手で捕らえると、先細りのする小枝に刺して火の側に突き立てた。
「逃げるつもりなら、体力つけておかねぇとな」
  そう言ってカゲハはにやにやと笑う。
  楽しんでいるのだろうか。
  イサリはこれだけのことでもう心臓が口から飛び出しそうなぐらいにおののいているというのに。それなのにカゲハは、平然として笑っている。
「なんだ、心配してるのか？　気にするな。俺だってこれ以上、里にいたくはなかったんだ。お互いに意見が一致したから逃げ出した。そうだろ？」
  押し切られて、イサリは躊躇いがちにだったが、それでも首を縦に振っている。
「よしよし。いい子だな、お前」
  そう言ってカゲハはそっとイサリの肩に手を回した。
「──…それにしてもお前、あまり見かけない顔だな。いつ頃から里に？」
  カゲハの問いにイサリは目を伏せる。
「ずっと……生まれた時からずっと、里に……里の外へは、一度も出たことがありません」
  里の男たちの慰み者になっていたからだとは、イサリには告げることができない。そんなことを知られたら、きっとカゲハはイサリのことを……。
「そうか。それよりもお前、名は？」
  しかしイサリの心配をよそに、カゲハはさっと話題を切り替えた。
「お前が俺の名を知っているのに、俺がお前の名を知らないのは不公平だと思わないか？」
  親しげな笑みを浮かべてカゲハは尋ねる。
  驚いたように顔を上げ、それからゆっくりとイサリは口を開いた。伏し目がちの表情は、どこか恥ずかしそうだ。
「──…わたしのことはイサリと呼んでください」