<スージィ・ファムの章>

  誰かが見ていた。
  スゥは、その視線に気付いていた。
  抑揚のない冷たい眼差し。感情に欠けた、双つの瞳。
  その視線が人間のものではないと気付いた時に、スゥは駐屯地から出て行くべきだったのだ。
  だが、彼女はそうはしなかった。
  スゥは恋人の側にいたいがため、駐屯地での生活を選んだ。
  浅はかな女は、ほんのひと時の快楽を求め、冷たい視線につけまわされ、怯えて暮らす生活を選択したのだった。



  スージィ・ファムは、恋人オーヴリィが眠ってしまったのを見計らってから、こっそりと小屋を出た。
  湖のそばのボートハウスで、リッツと会う約束をしていた。
  駐屯地でオーヴリィと関係を持つようになって間もなくして、リッツという名の年下の若い兵士にスゥは付け回されるようになった。
  オーヴリィには一言も話してはいないが、この年下の兵士はスゥにしつこく言い寄り、オーヴリィと一緒にいるところを隠し撮りしたり、会話を盗聴したりしていた。オーヴリィがそのことを知ったらおそらく激怒するだろう。しかしスゥは、この駐屯地での生活を平穏なものにしたかった。付け回されていることを隠し続け、何もないような顔でオーヴリィとの生活を楽しもうとした。
  付け回されているのは気のせいだ、自分の思い過ごしだと言い聞かせていた。
  しかし、そうもいかなくなってきた。年下の兵士はスゥに関係を迫ってき、その上、言うことを聞かなければオーヴリィに危害を加えるとまで言い出したのだ。
  オーヴリィは新型機のテストパイロットだ。毎日、緊張の連続で疲れている。たかが娼婦の自分のことで、心配をさせたくはない。
  そう思ったスゥは、一人でリッツと会うことにした。
  ──あいつと二人きりで会うのは、これが最初で最後。今後、絶対にあたしたちに近付かないように言い聞かせなくちゃ。
  そんなことを思いながら、スゥは湖への小道を忍び足で駆け抜ける。
  オーヴリィと二人で通い慣れた道だったから、恐いとは思わなかった。
  ボートハウスには、約束の時間よりも十五分ほど早く着いた。誰もいなかったが、すぐにリッツが来ることが分かっていたので、スゥは一旦、表に出た。林の中でリッツがやって来るのを待つことにしたのだ。
  そのうちに、リッツではない誰かが、繁みの小道を通ってやってきた。
  スゥの知らないその人物は、男だった。
  精悍な顔立ちの、赤毛の男。無表情のまま彼はボートハウスに入っていった。
  あんな男がこの駐屯地にいたのかと思うと、スゥは不思議でならなかった。あれほどの男ならきっと、娼婦たちの噂の的になっているはずだ。だが、スゥは彼を見たことがないし、仲間たちが噂している男の中に赤毛の男はいなかった。スゥがこの駐屯地に来てから出入りした兵士は、幹部も含めて一人としていない。あんなに目立つ容姿の男なら、今ごろ娼婦たちの間で噂になっていてもおかしくはないだろう。
  スゥが木陰に隠れていると、リッツがやってきた。左肩を下げた癖のある歩き方だ。
  リッツは何も知らずにボートハウスのドアを開けた。
  スゥは一度、木陰から出てボートハウスのほうへと近付いていった。が、すぐにそれが間違いだったことに気付た。
  突然、小屋の中で銃声が響いた。
  続いて、リッツの金切り声が聞こえてくる。
  スゥは慌てて木陰に戻ろうとしたが、一番近い木陰に隠れるのでも随分と距離がある。それよりもすぐ足元にあるボートに乗り込んでやり過ごすほうがいいと、スゥは足音を立てないように慎重に、しかし急いでボートを湖に下ろした。慌てて乗り込んだ途端、勢い余ってボートが転覆した。
  水中は真っ暗だった。少し泥臭い。ボートを元に戻そうかと水面に顔を出すと、ちょうどリッツがボートハウスの壁にへばりついている姿が見えた。
  いや、へばりついているのではない。赤毛の男がリッツの肩口を片手で掴み上げ、壁に叩き付けているのだ。
  スゥは悲鳴をあげそうになったが、ぐっと喉の奥に飲み込んだ。
  それから物音を立てないように桟橋の下に入り込むと、支柱に掴まり助けが来るのを待つことにした。
  先程、スゥがひっくり返してしまったボートが波に流されて桟橋のすぐ側にぶつかってきた。ボートは桟橋の支柱にあたり、カタカタと音を立てた。
  赤毛の男はしばらくあたりの様子を伺っているようだったが、そのうちに転覆したボートに気付き、湖へ近付いてきた。
  メキメキという音がして、桟橋が壊されていく。スゥは声を上げないように口をぎゅっと一文字に引き結び、水中に潜った。
  水の中で目を開けてみたが、やはり薄ぼんやりとしか見えなかった。
  息が苦しくなってきた頃に、水の中にまでバキバキという何かが破壊される大きな音が 響き、次いでボートが鼻先を掠めて沈んでいった。
  驚いたスゥはぶくぶくと息を吐き、溺れそうになりながら水面に頭を出した。壊された桟橋の隙間から、赤毛の男の姿が見えている。叫び出しそうになるのをじっと堪え、スゥは支柱にしがみついた。男からは見えないように、自分の位置をよく考え、男が移動するとそれに併せて自分も位置を変えた。
  長いこと男は湖を見ていた。
  沈んだボードがぽっかりと浮かびあがってくるのを見届けてから、男はその場を立ち去ったようだった。
  スゥは恐ろしさのあまり、桟橋の下の隠れ処から出ることができなくなってしまった。
  もしも今、ここを動いてしまったためにあの男に気付かれたら。そう思うと、恐くて恐くて身動き一つするのも躊躇われた。
  そうして、のろのろと夜は明けていった。



  オーヴリィに抱きしめられ、スゥはほっと安堵した。
「どうした、気分でも悪いのか?」
  夜中にスゥは何度も目を覚ました。
  湖での出来事が頭の中をぐるぐると回っており、目を閉じるとボートハウスの壁に身体をめりこませたリッツの手足が、まるで玩具の人形かピンで串刺しにされた昆虫採集の虫のように一本一本引き千切られていくシーンが浮かび上がってきた。
  スゥは軽く頭を横に振り、サイドボードに置いてあったコップを取った。コップの中の液体は生ぬるかったが、ぐいと一息に流し込む。オーヴリィのジンだった。咳き込みながらスゥはコップを元の場所に戻し、オーヴリィにぎゅっと抱きつく。
  恐ろしかった。
  見てはならないものを見てしまったという後ろめたさと、ある種の恐怖感が身体の中を駆け巡る。
  オーヴリィに話すにしても、何から話せばいいのか解らず、スゥは詳しいことを彼にまだ話していなかった。
「……すごく…恐かったの」
  スゥはぽつりと言った。
  オーヴリィはただ黙ってスゥの肩を引き寄せ、まだ少し顔色の悪い頬にそっと唇を寄せた。
  安心できる場所だと、スゥは思った。
  ここが、オーヴリィの胸の中が、一番安心できる場所だ、と。



  それから数日してスゥは、リッツ惨殺事件の重要参考人として司令官から呼び出しを受けた。
  査問会が開かれ、スゥは事件当時のことを、頭の堅い軍人相手に何度も繰り返し話さなければならくなった。
  オーヴリィとの面会は許されず、独房で寝起きをさせられた。取り調べでは女性の検査官の前で裸になるようにと命令され、屈辱的な扱いも受けた。そして取り調べ中、次第に頭が混乱してきて矛盾したことを喋ったりすると、何時間でもその点について追求された。
  スゥは、気を付けなければと思った。
  彼ら……軍人たちは、スゥが犯人だろうとそうでなかろうと、どうでもよかった。どのような形であれ、リッツ事件の犯人を挙げることができればそれでいいと思っている。だからスゥが赤毛の男のことを話しても、単なる言い逃れとして聞き入れてもらえないのだ。
  彼らがしつこくスゥを追求するのは、いつか彼女が疲れ果てて自白するのを待っているからだ。
  疲れきった頭で、スゥは考えた。
  事実は事実としてはっきり話している。スゥが彼らに伝えていないのは、赤毛の男に対する彼女自身の見解だけ。もっとも、話すことができたとしても笑い飛ばされるのが落ちだろうが。
  言ってしまえば、少しはスゥの言い分も聞き入れてもらうことができるかもしれない……そう思うと、一刻も早く話したいと彼女は思った。
「…──それで?」
  スゥの意見に耳を傾けた検査官は、冷たい眼差しでスゥを睨み付けた。話を聞くだけ無駄だったと、そんな表情を浮かべているようにも見える。
「……だから、あたしが思うに、あの赤毛の男は人間じゃなかったような気がするんです」
  スゥはおどおどと口を開いた。
「どうして人間じゃないと思うんだね」
  と、検査官。
「だって、ものすごい力でリッツの身体をボートハウスに叩き付けていたし、片手でボートの縁を壊したんだもの。それに……」
「その赤毛の男とやらが人並み以上の力を持っていることはわかったが、それでは彼は、人間でなければ何だと言うんだね、君は」
  検査官は苛々と尋ねた。彼は初対面の時からスゥの喋り方を嫌悪していた。いや、スゥが女で、娼婦だということに対して嫌悪感を抱いていたのだ。
「ええと、だから……」
  スゥは少し考え、それから言った。
「セクメロイド、かしら……?」



  また、見られていた。
  独房の中でスゥは、あの眼差しを感じていた。
  蛇のように冷たく、執拗な眼差し。メドゥサのように見る者を石にしてしまうかのようだ。
  何故、自分が見られているのか、スゥにはさっぱり解らなかった。
  いったい、何のために?
  それに、この眼差し。これはリッツのものではなかったというのか。
  スゥはずっと、視線の主がリッツだと思っていた。彼がスゥを見つめ続け、後を付け回していたと思っていたのだが、もしかしたらそうではなかったのかもしれない。
  では、いったい誰が、何のため──?
  独房で過ごす夜は、両手の指の数を超えた。スゥはもう、今日で何日目かも解らなくなっていた。このままではいけない。このままでは、頭がおかしくなってしまう。何とかしなければ。頭がはっきりとしているうちに、何とかしなければ……。
  スゥはそんなことを考えながら、しばらく眠っていたようだった。
  次に彼女が目を覚ますと、廊下に靴音が響いていた。
  電磁ロックが解除されると同時にドアがスライドし……その向こう側に、赤毛の男が立っていた。
「…あっ……!」
  スゥは一声小さく叫んだきり、身動き一つできない。恐ろしくて、足が動いてくれないのだ。
「──君が言っていた赤毛の男というのは、この男かね?」
  検査官が独房に入ってきて、尋ねた。
「え…ええ、そうよ……そうよ、この男がリッツを殺したのよ!」
  スゥは上擦った声ではっきりと答える。
「そうか、やはりな」
  残念そうに検査官は呟いた。
  スゥが怪訝そうに検査官を見つめていると、通気口のところから霧状の何かが風に乗って流れ込んできた。
「残念だな。この男のことを覚えていなければ、釈放してやってもよかったのだが……」
  検査官の声がどんどん遠くへいってしまう。
  スゥは気を失う瞬間、思考力の鈍った頭で自分はこれからどうなるのだろうかとふと思った。
  いや、もう、どうでもいい。
  赤毛の男から、あの視線から逃れることができるのなら、どんなことになったって構わない。
  スゥはゆっくりと、目を閉じた。
「──よし、運び出せ」
  検査官が冷たい声で言い放つ。
  赤毛の男はスゥの身体を抱き上げ、検査官の指示を待った。
  二人は、気を失ったスゥを前もって用意しておいたエア・カーの後部シートに乗せた。 スゥの身体はぐったりと力なくシートに横たわっている。
  検査官はエア・カーを運転し、駐屯地の外に出た。
  スゥはそれきり駐屯地から姿を消してしまい、二度とその姿を見ることはなかった。



END
(H12.7.27)
(H24.12.15改稿)


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