SQUALL

  一枚、二枚、三枚……。
  『あの人』からの手紙に火をつけては、灰皿に捨てる。
  揺らめく炎をぼんやりと眺めながら、悠麻は今日は何曜日だったかを思い出そうとする。
  思い出せない。
  部屋に閉じこもってから今日で何日目になるだろう。
  もうずっと長いこと、この部屋から出ていないような気がする。誰とも顔を合わせることもなく、一人きりで閉じこもっているのはいけないことだと解っている。だけど部屋を後にすることができない。
  『あの人』のことを想って過ごす一人の時間に、もしかしたら悠麻は酔い痴れているのかもしれない。
  大好きだった、『あの人』との時間に…──



  『あの人』からは、何通も手紙をもらった。
  はじめてもらったのはポストカードだった。
  一面が澄んだ海の青い色のポストカード。そこに、ブルーブラックの万年筆で一言「元気か?」と書かれてあった。癖のある右上がりの字だった。
  悠麻は返事を出さなかった。
  その時は、ポストカードをもらったことがただただ嬉しくて、それ以上のことは何もできなかったのだ。それに、悠麻は字が汚い。もともと右利きだったのだが、喧嘩で拳を痛めてからは左で字を書くようになった。だから、字を書くのはあまり好きなほうではない。
  夏だった。
  軒下の風鈴がチリン、チリン、と涼しげな音を立てていた。
  むわっとした蒸し暑い空気の中に、埃っぽい雨のにおいが混じっていた。それから、錆びたような血のにおい。
  唇の端をぺろりと舐めると胃がむかついて、すぐに悠麻は血を舐めるのをやめてしまった。
  かび臭い畳の部屋でぼんやりと窓の外を見る。ずっと向こうのほうに見える海を眺めていると、太陽の光で海面がきらきらと輝いて反射している。
  チリン、と、また風鈴が鳴った。
  一雨くるなと思いながら、悠麻はじっとその場から動かなかった。



  汗臭い男の体臭を、悠麻は鼻腔いっぱいに吸い込んだ。
「きてくれたんだね、今日は。よかった」
  小さく呟きながら悠麻は、男の首に力いっぱいしがみついていく。
  夕方近く、日暮れにはまだ間のある頃に部屋にやってきた男は、三十代後半から四十台前半ぐらいの年の頃の男だった。短く刈った髪には、白いものがぽつぽつと混じり始めている。サラリーマン風のスーツ姿で戸口に佇んでいた男は、悠麻の髪に軽く触れるだけの口付けを落としながら告げた。
「泊まっていくよ、今日は」
「嬉しいっ」
  小さく叫んで、悠麻はさらに男にしがみついた。
「栖原さんと一緒に過ごせるなんて、夢みたいだ」
  男は「そうか?」と尋ねながらスーツの上着を脱ごうとする。悠麻はすぐに男から体を離して、一つしか置いてないハンガーを男に手渡した。
「はい、どうぞ。いつものところに掛けておくね」
  上着を脱いでも男は、まだワイシャツにネクタイをしたままだ。いかにも仕事帰りといった姿の男は、ランニングに短パン姿の悠麻とは対照的だ。
「ああ、頼むよ。悠麻」
  悠麻は、栖原がどんな仕事をしているのか知らない。
  半年ほど前に二人はこの近くの海岸で出会った。それ以来、時折、栖原はこうして悠麻の元を訪れる。特に何を喋るでもなく、互いにただ相手の身体を求めるだけがほとんどだった。ごくたまに、栖原は悠麻を部屋から連れ出して湾岸沿いの道をドライブした。
  それだけの付き合いだった。
  しかし、悠麻にとっては唯一の外の世界との接点だ。
  悠麻がどれほど『あの人』との想い出に溺れようとも、必ず栖原が悠麻を現実に連れ戻した。
  辛抱強く栖原は、悠麻の目を外の世界へ向けようとした。少しでも悠麻が興味を持ちそうなことを見つけては、誘いかけてみる。
  たいていの場合、悠麻は栖原の誘いに乗っていった。
  いい歳をした大人が必死になって、ゲームボードやテレビゲームを買いこんできては、年下の悠麻の興味を引こうとする。
  悠麻は大学生だったが、まだまだ遊びたい盛りだった。気が向いた時に大学に顔を出すと、そのままふらふらとコンパに参加する。誰にも見せたことのないプライベートでは栖原に抱かれていたが、同じ年代の友人たちの中に入ると異性を抱くこともあった。
  後腐れのない付き合いをするから、興味本位やセックスだけが目的で近づいてくる女たちにとって悠麻は、非常に都合のいい便利な男でもあったのだ。



  栖原の愛撫は蛇のように執拗だ。
  ゆっくりと、焦れるまで一つところをじわじわと攻め抜く。
  それは、悠麻に『あの人』を思い起こさせる行為でもあった。
  やめてくれと懇願しても、栖原は許してくれない。優しく悠麻を抱きしめたまま、何度でも緩やかな愛撫を繰り返し、焦れて悠麻が啜り泣きを始めるまでは決して、栖原は本格的な愛撫を与えてはくれなかった。
  『あの人』とは、まったく違う愛し方。まったく違う、指遣い。
  それでも栖原に惹かれてしまうのは、いったい何故だろう。
  あまりぱっとしない、くたびれたサラリーマンのこの男は、『あの人』とは正反対のタイプのように思われた。
  あの人ならきっと、こんな風には愛さない。
  そう思うたび、悠麻の心は栖原へと傾いていく。
  栖原に抱かれることで悠麻は、全身全霊が『あの人』に向いてしまうことをどうにかやり過ごしている。この逢瀬がなくなってしまったならきっと、悠麻は自分の殻に閉じこもり、一日中『あの人』の夢ばかりを見ていることだろう。
  それほどまでに『あの人』は、悠麻にとっては絶対的であり、すべてだった。
  もっとも、現在のところ悠麻の選択肢の中に栖原との別れは存在しないものだったが。



  ゆっくりと栖原の手が、悠麻の体の上を滑り降りる。
  胸の突起を触ってほしくて、悠麻は身体を大きくよじった。
  『あの人』の指とは違う手が、ゆっくりと悠麻の身体を愛撫する。じれったい。『あの人』なら、こんな愛し方はしなかった。
  『あの人』なら……。
  栖原は舌先だけで、悠麻の肌を愛撫する。手は、悠麻の背や脇腹を撫でさすっている。他の部分には触れてくれない意地悪な手を、悠麻は鷲掴みにし、ぐい、と引き寄せた。
「触って……お願い、栖原さん……」
  栖原の手を股間に押し当てると悠麻は苦しそうに嗚咽を洩らした。
  ひくひくと喉が上下している。
  股間の高ぶりは熱かった。蕩けそうなほど熱く、今にも爆ぜてしまいそうだ。
「あぁ……早く……」
  深い溜息を吐くと栖原は、もう一方の手で悠麻の太腿を撫で上げた。
「まだ、始めたばかりだぞ」
  悠麻はじれったそうに腰を揺らめかせる。自分から腰を振って男を誘う様など、『あの人』には決して見せられない。『あの人』の目に映る悠麻は、天使のような存在だったらしい。決して、後ろの穴に男の肉棒を銜え込んではヒィヒィとよがってみせる淫乱などではない。
  悠麻は上体を起こすと栖原の白髪混じりの髪をぐい、と引っ張って、無理矢理顔を上げさせた。
  しかめっ面の栖原が顔を上げると、すかさず悠麻は口付けた。唇と唇を合わせるだけだったが、激しいキスだった。栖原も身を起こすと唇を貪った。悠麻の唇は、栖原に吸われてぷっくりと紅く色づいている。
  紅い、紅い、血の色だ。
「悠麻──」
  栖原が優しく声をかけた。
  その瞬間、ずん、と、悠麻の身体の中に、栖原の血に飢えた楔が穿たれた。



  栖原に抱かれて眠りながら、悠麻は夢を見た。
  『あの人』の夢だ。
  ごつごつとした大きな手。筋肉質な広い肩幅。栖原と同じぐらいかもう少し年上のように思われたが、『あの人』の肉体は若々しい体躯をしていた。
  悠麻の身体を易々と抱き上げ、自由奔放に弄ぶ腕と指先。唇は薄く、あまり色事には興味のなさそうな様子だったが、悠麻が求めれば、いつ、どんな時でも抱いてくれた。優しく、まるで壊れ物を扱うかのように、そして執拗に『あの人』は悠麻を抱いた。
「悠麻」
  と、低くざらついた声で名を呼んでくれる。『あの人』の声がざらついているのは、昔、まだ学生の頃に声帯を傷つけたことがあるからだと聞いたことがある。
  悠麻はしかし、そのざらついた声で優しく名を呼んでもらい、節くれだった手で愛撫されるのが好きだった。
  例え『あの人』が、自分と血の繋がった…──父親であったとしても。



  目が覚めたのは、隣で眠っているはずの栖原が身動ぎをしたからだ。
  そっと目を開けると、栖原は悠麻の顔を覗きこんでいた。
「君はいつも、別の誰かのことを考えているんだな」
  栖原はそう言った。
  悠麻は焦点の合わない眼でぼんやりと栖原に視線を合わせ……黙って手を伸ばした。
  栖原の首に腕を絡め、悠麻はきつくしがみつく。
「ずっとあなたのことだけを考えてるよ」
  ──いつも、いつも。
  寝言のようにも聞こえる言葉に適当に相槌を打ちながら、栖原は悠麻の頬に口付けた。
  栖原にとって悠麻は、単なる身体だけの付き合いではない。いい年をした男が、下手をすると自分の息子と同じぐらいの年の青年に現を抜かしているのだ。栖原は、自分のしていることを把握し、理解している。自分の人生のパートナーとして、悠麻を心の底から愛しているのだ。ただ、その表現の仕方が解らないというだけで。
  もっとも、悠麻のほうには栖原のようにはっきりとした恋愛感情はない。
  どちらかというと、悠麻の目的はセックスに重きを置いているようだった。不特定多数の中の誰か一人と寝ている間は、『あの人』のことを忘れることが出来た。悠麻の目的は、そこにしかなかった。
  誰かと寝ている間は『あの人』のことを忘れていられる。継続した時間ではなかったが、それでも構わなかった。分断的にでも忘れることのできる瞬間を、悠麻は求めていたのだ。
「あなたがいてくれて嬉しい……」
  呟いて悠麻は、さらに強い力で栖原を抱きしめた。



  外は、どす黒いオレンジ色をしていた。
  日没前の夕焼け空に真っ黒な雨雲がかかり、湿気を含んだ風はむしむしとして重苦しかった。
  一雨来るな、と悠麻は窓の外に目を馳せ、思った。
  自分の父親ほども年の離れた男に抱かれながら、悠麻は、それでも『あの人』のことを考えている。
  最愛の人にして、血の繋がった……父。
  『あの人』を想いながら別の誰かに抱かれることは、悠麻にとって大したことではなかった。
  自分の内側で燻る生理的現象を鎮めてもらうための存在でしかない。いわば、悠麻にとってのセックスはアスピリンのような効果を持っているというだけで、相手が別に誰であろうと構うことはないのだ。
  栖原の、熱く溶けた竿が再び身体の中に沈みこんできた瞬間、悠麻は頭を逸らし、大きくのけぞった。
  ぼんやりと、潤んだ瞳に窓の外の景色が飛びこんでくる。
  真っ暗な空から降り注ぐ、大粒の雨、雨、雨。
「……スコールだ」
  呟きはしかし、栖原の口の中に飲み込まれた。食らいつくような激しい口付けに、悠麻はむせ込みそうになった。
「んっ……栖原、さん…──」
  下半身を抉るピリピリとした痛みの向こうに、快楽が待っている。
  悠麻は手を伸ばし、布団の端をぎゅっと握り締めた。何かを手にすることで痛みを堪えようとしていた。
「こちらを見るんだ、悠麻」
  命令口調で栖原が言う。
  いつになく冷たい声色は、もしかすると怒っているのだろうか。
  悠麻は言われた通りに栖原の方に視線を向け、そのまま小さく笑った。
  いくら身体を繋げたとしても、この男は『あの人』には及びもしない──と、心の中で嘲りながら。
  そうしていつか、『あの人』の幻影に完全に溺れてしまう日がやってくる。
  栖原も、他の男も、女も、皆、窓の外でたった今もアスファルトに叩きつけられているスコールのように、悠麻の身体の上を通り過ぎていくだけだ。彼らが通り過ぎた後には、『あの人』の記憶だけが悠麻を支配する。
  甘くて、苦い、『あの人』との想い出だ。
「……──」
  悠麻は呟いた。
  自分でも何を口にしているのか理解していなかったが、その呟きが栖原の耳に届くこともなかった。
  両足で栖原の腰にすがりつき、悠麻は自ら進んで結合を深める。
  『あの人』なしでも生きていくことができると思える瞬間を求めて、悠麻は腰を振った。
  間もなくして降りつづける雨の音をBGMに、悠麻は、自らの欲望を放った。栖原のたるんだ腹が悠麻の放った体液で汚れる。
「悠麻……愛してる……」
  低く囁くと、栖原も腰の動きを早めた。前後左右に腰を振りながら、浅く、深く、突き上げる。悠麻の中から栖原の精液が溢れてきて、尻を伝い腰に付着した。シーツがべとべとして気持ち悪かったが、栖原は悦に入ったような恍惚とした表情で行為にいそしんでいる。
  悠麻の心に、『あの人』の記憶が再び蘇ってくる。
  ズキン、と胸が痛み、悠麻は栖原から顔を逸らした。



  いつの間にか、雨は止んでいた。
  開け放ったままの窓から、埃混じりの雨のにおいが風に乗って入ってくる。
  栖原が悠麻の中に放つとすぐに、悠麻は身体を起こして風呂場に向かった。ともすれば尻の穴から栖原のものが溢れてきそうになるのを堪えて、なんとか風呂場に駆け込んだ。
  シャワーのコックを捻り、勢いよく水を出す。
  栖原から与えられた汚れをすべて洗い流してしまうつもりで、悠麻は頭からシャワーを浴びた。まるでスコールのようだなと、シャワーを浴びながら悠麻はぼんやりと思った。
  悠麻の頭の中にあった栖原への興味は既に、失せていた。



END
(H15.5.29)
(H24.4.22改稿)



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