キラキラと照り返す水面の光を眺めるふりをしながら、直は対岸で魚釣りに興じる少年たちをこっそりと盗み見ていた。
対岸では、同じクラスの林田と柚木、それに高原が上半身は裸になって、水遊びまがいの魚釣りをしている。
「はぁ……」
聞こえるはずもないのに、こっそりと直は溜息を吐いた。
灼けつくような夏の日差しはじりじりと直を追い詰める。あまり長い時間はここにはいられなと思いながらも、直はこの場所から離れられないでいた。
ここにいれば、高原を見ていられるから。
もちろん大っぴらに彼を見ることはできなかったけれども、それでも、少しでも彼の姿を目にすることが出来るのなら、それだけで直は充分だった。
直の気持ちは普段、秘密の小箱に閉じ込めてある。誰にも気付かれないように、特に高原にはこの気持ちを知られることのないように、直は気持ちを隠している。
男の自分が、同じ男の高原を好きだということは、誰にも知られないほうがいいのだ。
直はもう一つ、深い溜息を吐いた。
口に出来ない想いは、ここ三ヶ月間、ずっと直の心の内で煮詰まっている。
口には出来ない。
だけど、伝えたい。
そんな相反する気持ちが、直の心の中で堂々巡りを続けている。
どうすればいいのだろう。いったいどうすれば、この気持ちが楽になるのだろうか。
直はそんなことを考えながら、また、こっそりと高原を盗み見たのだった。
三人はふざけながら釣りをしていた。
ガキ大将のように何か喚きながら釣り竿を振り回しているのは、柚木だ。林田は網を手に、高原の足を引っかけようとしているのか、何やら神妙な顔つきでこっそりと背後から忍び寄ろうとしている。
直のお目当ての高原は、釣り竿を岩の間に引っかけて、ザリガニを捕まえるのに夢中になっている。 高原がなんであんなものに夢中になるのか、直にはよくわからなかった。
「見ろよ、このザリガニ!」
怒鳴るような高原の声が、あたりに響く。
直の耳にも、高原の声は聞こえてきた。
「ほら、子持ちだぜ」
ザリガニを手に掴んで、嬉しそうに振り回している高原はまるで子供のようだ。直は、高原があんな表情をすることがあるのかと思うと無性に可愛く思えてならなかった。
黙っていればそこそこ見られる顔立ちの高原は、教室にいる時にはもっと大人びていた。
引っ込み思案で消極的な直とは違って、友人の多い高原は常に輪の中心にいた。誰とでも気さくに喋る高原はクラスでも人気者で、たいていの場合、教室の隅っこで本を読んでいる直とは対極的な存在だった。
今でも、そうだ。
直がこっそりと隠れるようにして高原のことを盗み見ているのに対して、高原は腰まで川に浸かって──直は、高原は水に濡れたズボンや下着をどうするのだろうかと思わずにはいられなかった──楽しそうに声を上げている。
楽しそうだな…──そんな風に直が羨ましく思った瞬間、偶然、高原がこちらへと視線を向けた。
少し驚いたような、それでいて人懐っこい眼差しで、高原は直を真っ直ぐに見据えている。
直は慌てて下を向くと、手にしていた本の頁に必至になって目を走らせた。
※
慌てて手にした本に目を走らせた直だったが、高原はちゃんと直の行動を見ていたらしい。
活字を読むふりをしながらちらちらと向う岸を盗み見ていると、上半身裸の高原は、ざぶざぶと腰まで水に浸かりながら川を渡ってくるところだった。
「おーい、仲川!」
高原が、直を呼んでいる。
必至になって本に目を走らせるが、高原は怒ったようにもう一度、声をかけてきた。
「仲川! 本なんか読んでねぇで、一緒に魚釣りしようぜ」
それでも直が知らん顔をしていると、高原は焦れったそうに川の中程のあたりから平泳ぎをして、こちら側へ渡ろうとした。
都会では滅多にない澄んだ水のこの川は、夏になると近所の人たちが泳ぎに来ることで有名だ。川岸でバーベキューをしたり、どこからかビーチパラソルを持ち出してきて日光浴をしたり。直だって、夏休みになれば泳ぎに来るつもりをしていた。ただ、今はまだ、休日に魚釣りの家族がやってきて、子供が大喜びで水遊びに興じる程度のことだったが。
「高原君……」
本の頁から顔を上げ、直は高原の姿をじっと見つめていた。
高原の若い肢体は程良く筋肉がついており、艶めかしい色気を放っている。大人の男にはまだほど遠いものの、幼さの抜けた体躯をしている。直から見れば高原の体は大人のものに近い。羨ましくも思いながら、直はそんな高原の姿を眺めている。
高原は腹の底から声を出し直を呼んだ。
「お前、そんなところで本なんか読んでないで、俺たちと一緒に魚釣りしようぜ!」
直は本を鞄の中にしまい込むと、立ち上がった。
水に入る気はなかったが、ぐるりと回ってこの先の橋のところから向こう側へ渡るつもりだった。
「おおーい、仲川ー!」
「一緒に遊ぼうぜ〜」
柚木と林田も向う岸で声を張り上げている。こちら側へ渡ろうとしている高原を見て、直の存在に気付いたのだろう。
直は恥ずかしそうに目を伏せて、手にした鞄を持ち直す。
歩き出す直前にもう一度、直は高原を見た。
「橋のところで待っててやるよ」
にやり、と高原が笑う。
直は慌てて目を逸らした。すーっと、頬が赤らんでいくのが自分でも解った。
一瞬、直の目に高原が随分と格好良く見えたのだ。雫を垂らす濡れた前髪や、波打つ肩の筋肉。少年から青年へと移り変わりつつある高原の肢体は、ある種の独特な色気を醸し出している。まだ子ども子どもしている自分の体付きとは違う高原に、直は憧れると共に小さな欲望を感じてもいた。
「いいよ、待っててくれなくても」
つっけんどんに返すと直は、小走りに橋のたもとへと駆けていく。
高原は平泳ぎで直の後をついてきた。
橋の中程で直は、柚木たちのいる方向をちらりと見遣った。岩の間に挟み込んだ釣り竿が、きしきしと傾いでいるように見える。
「あ……高原、魚、釣れてるみたいだよ」
橋の下を漂うように流され泳いでいる高原に、直は声をかけた。
「ええっ、なんて?」
高原が尋ね返すのに、直は声を張り上げて言った。
「だから、魚! 魚が餌に食いついてるみたいだよ!」
「──いやったぁ!」
子どものように叫び声を上げると、高原は水から上がった。よろよろと土手を這い上がり、ずぶ濡れのまま、目の前にやって来た直ににやりと笑いかけた。ぐっしょりと濡れたズボンの裾を軽く絞る手がもどかしそうだ。
「行こうぜ、仲川」
そう言うと高原は、直の腕を掴む。それから、舗装されていない砂利道をものすごいスピードで駆け出した。
直も、つられて走っていた。
咄嗟に掴まれた手首が、熱い。
走りながら高原は、二人の友人にも声をかけている。
「柚木、林田、引いてるぞ!」
走って、走って、直は高原の後を追いかけていた。
降り注ぐ日差しが眩しくて、直は高原に手を引かれたまま目を瞑った。
わぁわぁと騒ぎ立てる高原達の声が、遠くから聞こえてくるような感じがする。
まるで夢をみているようだと、直は思った。
憧れていた高原に腕を掴まれ、自分は今、一緒に走っている。時折、直のほうへと飛んでくる小さな水飛沫が心地好い。
「本当に魚、釣れたの?」
恐る恐る直が尋ねると、高原は呆れたような表情をして、言った。
「まだ、分かんねぇよ」
※
柚木と林田が釣り竿を引き上げるその瞬間、直と高原はちょうどその場に駆けつけることが出来た。 けろりとした顔の高原に比べると、両膝に手をついて息を切らす直は明らかに運動不足気味だった。 それでも、呼吸が整うのを待ちながら直は釣れたばかりの魚に目をやった。
黒っぽい大きな魚はきらきらと反射する水滴をあちこちに飛び散らしながら、身体を激しくばたつかせている。よく見ると全身は銀色をしていた。背の辺りが黒っぽいだけなのだが、あまりにもよく動くので分かりづらい。細いワイヤーが今にもちぎれるのではないかと思えるほど、魚は大きく背をしならせ、暴れている。
「お前、体育苦手そうだもんな」
こっそりと高原が直に耳打ちした。
「えっ!?」
一瞬、何を言われたのか直にはわからなかった。
「お、ブラックバスじゃん」
柚木の手で無情にも川岸に押さえつけられた魚を見て、高原は満足そうに微笑んだ。
「誰かが放流したんだろうな」
とは、林田だ。
「そうなの?」
不思議そうな顔をして、誰にともなく直は尋ねかける。
「昔は、このあたりじゃ見かけなかったからな、バスは。フナは多かったけど」
言いながら柚木は器用に片手で魚を押さえつけ、口の端に引っかかった釣り針を外してやる。
「ほら、もう捕まんなよ」
そう言って柚木は、釣ったばかりの魚を再び川に戻した。
「あーあぁ……」
後には、高原の残念そうな呻き声だけがいつまでも響いていた。
水の中に戻された魚は、いそいそと人の手の届かないところへと泳いで逃げていった。
「うーん、残念」
と、ひとりごちたのは高原だ。
「持って帰っても飼えねぇだろ」
林田に追い打ちをかけられ、高原はがっくりと肩を落とした。
あまり目の当たりにしたことのなかった高原の子どもっぽい一面に、直は小さな笑みを浮かべる。がっしりとした体格の高原が、何故だが急に可愛いく見えてきた。
「高原ってさ、割と子どもっぽいところあるんだ?」
先程のお返しとばかりに、直は言った。
いつの間にか林田と柚木は身支度を整え、家に帰る用意を始めていた。釣り竿は柚木のものらしく、大事そうに荷物と一緒に抱えている。
「そろそろ帰るわな、俺ら」
林田が言った。
「おう、また明日な」
高原が頷いて返す。
「じゃあな。お前らもそろそろ帰れよ」
生真面目そうに柚木が手を振って言う。
「じゃあな!」
高原は二人の友人に勢いよく手を振った。
ふと気付くと、西の空が茜色に染まり始めていた。
「あ……夕焼けだ」
直までもが子どものように西の空を指さして、高原に告げた。
「本当だ。綺麗だなぁ」
言いながら高原は、自分が羽織った半袖シャツの裾を直がぎゅっと握り締めているのに気付いた。
小さな子のように直は、夕焼け空を熱心に見つめている。
「明日はきっと晴れだな」
高原はにやりと笑うと、そう宣言した。
直はその瞬間、はっとして高原の顔を正面から見つめた。
悔しいことに、夕陽に照らされた高原の横顔は随分と格好よかった。
「うん……うん、そうだね」
言葉を返しながらも直は、カッと自分の頬が火照りだしたのを感じた。どうか照り返しの加減で、高原が気付きませんように。そう心の中でこっそりと願って、両手を後ろ手にして指を交差させる。笑われるかもしれないが、苦しい時のおまじないだ。
「俺たちも帰るかぁ」
うーん、と伸びをして、高原。
「うん」
ちょっぴり残念な気持ちで直は頷いた。
本当は、もう少しこうしていたかった。高原と二人きりで、夕陽を眺めていたかった。
西の向こうに夕陽が沈む瞬間を眺めたい。
もう少しだけ……。
返事をしたもののその場に佇んだまま直がもたもたしていると、一度は背を向けて歩き出していた高原が突然、振り返った。
「お前さ、笑ってると可愛いじゃん。いつも本ばかり読んでて堅苦しい顔ばっかだけどさ、さっきみたいに皆と一緒に騒いでたら、すっげー可愛かったぜ」
そう言って、照れたように高原は頭をポリポリと掻く。
唖然として直は、その場で立ち尽くしてまった。
まさかそんなことを高原から言われるとは思っていなかったのだ。
それに。
高原は、直の胸の内を知っていてそんなことを言うのだろうか。もしも彼が直の気持ちを知ったとしても、同じことを言ってくれるだろうか。
「そう? ありがと」
何気ないふりを装って、直は返した。
声が震えてしまわないように、両手をぎゅっと握り締めて力を入れ続けていた。
1
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(H14.9.21)
(H25.1.19改稿)
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