「圭ちゃん……圭ちゃんって……圭一郎、砂糖こぼしてるよ!」
由布の言葉で圭一郎はふと我に返った。
コーヒーに砂糖を入れているつもりが、どうやら少しばかり横へ逸れていたらしい。テーブルの上にこんもりと白い山が出来上がっている。
「あーあぁ、もうっ。朝っぱらからやめてよね。ほら、さっさと片付けて。時間なかったんじゃないの? そんなにゆっくりしてて大丈夫?」
世話焼きの由布は小学三年生だ。口やかましく圭一郎に文句を言いながらも、小さな手は素早くテーブルの上を真っ白にした砂糖を片付けている。
圭一郎は彼女の言葉に急き立てられるようにして食事を済ませ、早々に家を出た。もたもたしていると、今度はやれ顔は洗ったかだの、歯は磨いただの、挙げ句の果てに鍵は持ったのかとうるさいの何の。実家にいる時以上にやいのやいのと言われるのが煩わしくて、だけどそれが少しだけ居心地よくて、玄関先で慌ただしく靴を履いて家を出た。
行きたくなかったが、行くしかない。
朝木篤志と顔を合わせることになるだろうが、仕方がない。
社会人とはそういうものだ。
仕事とは、そういうものなのだから。
「はぁ……」
重苦しい溜め息を吐いて、圭一郎は職場までの道のりをのろのろと歩み始めたのだった。
藤原圭一郎が事務職員として私立杉澤学院に勤め始めたのは、ついこの間のことだ。
不況の煽りを受けて、それまで勤めていた会社が倒産したのがこの四月のこと。それからしばらくは東京で再就職をと頑張っていたものの、ようやく決まった再就職先でもリストラに遭い、なかなか勤め先が定まらず、敢え無く実家へ帰ってきたのが六月。それからあちこちを駆け回り、夏の終わりにやっと親戚の紹介で学校事務の仕事につくことが出来たのだ。
形ばかりの面接は八月に入ってから行われた。夏休み中だというのに学校はクラブ活動等で賑わっており、圭一郎にとっては懐かしい情景を思い起こさせた。
うだるような暑さとセミの声、教室、プール、気紛れに吹く涼しげな風と、体育館裏にこっそりと隠れて吸った煙草の味。踵を潰して履いた上履き……。
目を閉じると、学生時代の懐かしい思い出がふと蘇ってくる。
駅前の商店街を通り抜け、ゆるやな坂道を上がりきったところにある校門を潜る。今は緑が繁る桜並木の奥に、正面玄関のドアは解放されていた。
通り過ぎる生徒たちが、もの珍しげに圭一郎へと視線を馳せる。
昇降口で来客用のスリッパに履き替えた圭一郎は、事務室の受付窓口を軽く叩いた。
面接は事務室で行うので、履歴書を持って来てほしいと連絡を受けたのは昨日の夕方。間違えるはずがない。メモをしっかり取っているのだから。
だが、事務室には誰もいない。
受付窓口には「只今休憩中」のカードが立てられていたが、油性ペンで「憩」の字は消され、かわりに「業」の字が殴り書きされている。
どうしようかと圭一郎がしばらく窓口のあたりで立ち尽くしていると、生徒が一人、ふらりと寄ってきて声をかけた。
「ここ、誰もいねーぜ」
そんなこと、見ればわかる。圭一郎振り返り、相手が自分よりも大柄なのに驚いて僅かに後退った。
「アンタ、誰? 新しい用務員?」
相手は学生。しかし、どう見ても自分よりも十センチ以上背が高い相手に顔を覗きこまれた圭一郎は、弱々しい声で返すことしか出来なかった。
「あ…あの、事務員の採用面接があるって連絡があって……」
どもりながら圭一郎が喋り始めると、相手は難しい顔をして、こう返した。
「悪いけど俺、生徒だからさ。履歴書ぐらいなら職員室に持ってってやってもいいけどよ?」
低い声で尋ねられて、圭一郎はつい履歴書の入った封筒を相手に渡してしまった。
「えと…じゃあ、お願いしてもいいかな、これ」
「オッケ、渡して来てやるよ。えーと…名前、誰さん?」
また、顔を覗きこまれた。圭一郎はじりじりと後退りながら答えた。
「藤原……藤原圭一郎、です」
それが、朝木篤志との出会いだった。
新学期が始まると、事務室は圭一郎の城となった。
このところ杉澤学院では事務職員がなかなか続かず、数ヶ月もしないうちに次々と辞めていくという。聞いたところでは、圭一郎の前任者は三日で辞めたそうだ。
どうやら原因は朝木にあるらしい。
これまでの事務職員は女性ばかりだった。彼女たち目当てで朝木は事務室の受付窓口に日参し、喋りかけたという。大柄でいかつい雰囲気の朝木が、だ。彼女たちは朝木を怖がり、短期間で次々と辞めていった。そういうわけで、新たに校長が事務職員として採用したのが圭一郎だった。男なら、朝木もちょっかいを出すことはないだろうと見込んでのことだった。
が、朝木は毎日、休憩時間になるとは事務室にやってくる。
圭一郎にしつこく喋りかけ、構ってもらおうとした。
そのうちに終業のチャイムが鳴ると事務室に駆けつけ、圭一郎の様子を見にくるようになった。しばらくすると、圭一郎が職場を出る時間になるとどこからともなく現れ、途中まででいいから一緒に帰ろうと迫ってくる。
気が付くと、仕事中にちょくちょく見られていることもあった。
あまりにもしつこいので、圭一郎はうんざりし始めていた。
前任者たちが次々と辞めていったのも、わかるような気が少し、した。
「ねえ、朝木君。なんでそう、ここに来るの?」
確か、十一月に入ってからのことだ。
圭一郎は朝木に尋ねたことがある。
どうして事務室に通ってくるのか、と。
朝木は驚いたように圭一郎の目を覗き込んで、それから、こう言った。
「だって、アンタってさ、何かこう……世話を焼きたくなるようなタイプだから」
言われて圭一郎は絶句した。
確かに。確かにそうかもしれない。自分は、常に誰かに世話を焼いてもらっている。親と同居していた時には、母親に。家を出た今は、一緒に住んでいる姉と姉の子に、世話を焼いてもらっている。
だが、そんなことを朝木から言われるとは想像もしていなかった。
おまけに朝木はこうも言ったのだ。
「俺さ、アンタのこと好きだわ。子供みたいで可愛いし」
この言葉には驚かされた。が、そう言えば圭一郎は二十七歳という歳の割には童顔なほうかもしれない。可愛いと言われて嬉しくはなかったが、真っ正面から事実を突き付けられたようで、圭一郎はあまりいい気はしなかった。
圭一郎とは対照的に、朝木篤志は二年生にしては大柄な生徒だった。百九十近い身長に、適度に筋肉の付いた身体。授業に適当に顔を出して適当にサボる要領のよさと、明らかに喫煙しているとわかるメンソールの仄かな香り。
このごろ朝木は大きな顔をして事務室に出入りをしている。
授業を抜け出した時の避難所代わりにされているのかと思うと、圭一郎はそこでもまた嫌な気分がした。
当の本人はと言うと、あっけらかんとしてこう言うのだ。
「俺、アンタのこと好きだわぁ」
そう言っておいて、人気のないのを見計らって圭一郎に触れようとすることもあった。これまでのところ、特に何かあったというわけでもないのだが、毎日、毎時間、やってきては「好きだわぁ」といわれ続けていると、圭一郎だってその言葉に引きずられそうになってしまうこともある。
初対面の時の怖い感じは今の朝木にはなかったが、それでも、問題児であることにかわりはないように思われた。
十二月になっても朝木の日参は続いていた。
「な、な、圭一郎って好きな人いんの?」
生徒は授業が終わっていても、圭一郎の仕事は五時まである。朝木の言葉を適当に聞き流しながら仕事をしていた圭一郎は、ふと手を止めて、顔を上げた。
「別にそんなこと、どうだって…──」
言いかけて、こちらを眺める朝木の眼差しに吸い込まれそうな気が、した。
さっと視線を反らして圭一郎は、手元の電卓をまた叩き始める。この請求書の処理を終わらせたら、家に帰れる。仕事に集中しなければと、圭一郎は思った。
その反面、朝木の眼差しが穏やかな優しいものだったことに圭一郎は驚いていた。
毎日、毎時間、事務室に顔を出しては「好きだわぁ」の言葉を投げかけていく朝木が、冗談ではなく本気で圭一郎に好意を抱いているのだということが何となく伺われる。
──だけど、僕は男で、朝木も男だ。
圭一郎は電卓を叩き続けた。
指がでたらめに動いて、間違った数字を弾き出す。
圭一郎の頬は微かに上気していた。
朝木の眼差しが、怖かった。と同時に、あの眼差しでもう一度見つめてほしいと思う自分がそこにはいた。
好きなのだ、自分も。
どういう種類の好意かはわからないが、どうやら圭一郎も朝木のことが気になり始めているようだ。
その証拠にこんなにも、鼓動がどきどきしている。
そう言えばこのところ、家にいても朝木のことを考えるとそれだけで胸がきゅっと苦しくなることがある。気が付くと朝木の姿ばかり追っていて、何も手が付けられない状態だったりする。
だけどこの気持ちは口にしてはいけない。口にしてしまうと今のこの幸福感がどこかへ消えてしまいそうで、圭一郎はそれが怖かった。
見つめて欲しい、あの眼差しで。
だけど、それは今のこの状態を崩してしまうことになるかもしれない。
望んではいけない。思ってはいなけい。朝木を好きだという自分と、その気持ちを押し隠そうとする自分が、胸の奥底で争っている。
自分の気持ちに正直なのが一番だとわかっていて、そのように行動できない自分がいる。
だてに二十歳を越えてはいないのだ。
「クリスマスは彼女とデートすんの?」
いきなり事務室に駆け込んできたかと思うと、朝木はそう尋ねた。
「彼女なんていないから、家で一人でお祝いするの」
ぷっと頬を膨らませて、圭一郎。
クリスマスの前日、十二月二十四日は圭一郎の誕生日でもある。子供の頃から誕生日とクリスマスは一緒で、プレゼントはよその子よりも一回分少ないと、子供心に圭一郎は憤っていたものだ。だから圭一郎は、クリスマスのイベントがあまり好きではない。
「へー、そいじゃさ、俺とデートしない?」
尋ねられて、圭一郎はついうっかり、頷いてしまった。
「──…いいよ、どうせ暇だから」
家にいればいたで、姉と由布にうるさく言われるだけだ。だったら、相手が朝木でもとりあえず外に出る口実が出来ればそれでいいだろう。四月からこっち、女の子とは疎遠になっている。それを知っていて姉は、圭一郎に彼女の一人や二人はいるのか、と尋ねてくる。由布は由布で、デートはしないのかとしつこく尋ねるので、これ幸いと圭一郎は頷いてしまったのだ。
「本当にいいのか?」
疑うような眼差しで、朝木が圭一郎の顔を覗き込む。
「いいよ。家にいたってうるさく言われるだけなんだから」
圭一郎がはっきりと答えると、朝木は神妙な顔をして尋いてきた。
「デートって言ったら、デートだぜ? わかってんのか?」
「えーと……普通の高校生並みのデートだろ?」
と、圭一郎は首を傾げて尋ね返す。
朝木は少し考えてから答えた。
「……だと思うけど、そうじゃないのがいいのか?」
途端に圭一郎は警戒心を露わにし、探るような眼差しで朝木を見上げる。
「あ、別にいいぜ、普通で。普通に図書館行って、それから近所のファミレスで何か食べて、デート完了。これでバッチリ。文句ないだろ?」
慌てて朝木はそう言い直すと、電光石火の早業で圭一郎の唇を掠め取っていったのだった。
このところ、圭一郎が普通でないのは誰の目から見ても明らかだった。
ぼんやりと考え事をしているかと思うと、急に顔を赤らめたり、深刻そうな顔でまた考え事をしたりと、なんだか忙しそうだ。
夕方、帰宅した圭一郎を出迎えた由布は、一緒に台所に立ちながらちらちらとこの歳若い叔父を盗み見ている。
まるで母が男にうつつを抜かしている時の状態のようだと、こっそりと由布は苦い顔をした。
圭一郎の姉の和枝は恋多き女だ。高校三年の夏に由布を身ごもり未婚の母となった和枝は、一つ年下の圭一郎にこう言った。
「相手を自分のものにしたいと思っちゃ、駄目。その人のものになりたいと思うの。そうしたらきっと、恋が始まるわよ」
以来、和枝は女手一つで娘を育てながらあちこちで恋をしている。由布も幼い頃から、母にそう言われて育ってきた。おそらくこの言葉は、母の信条なのだろう。
圭一郎はそんな姉を、羨望の入り交じった眼差しで見つめることがよくあった。
──姉はいつも自分に正直だ。だけど、僕は……。
圭一郎は、姉を間近で見ていて、自分が彼女のように真っ直ぐに生きることが出来ないだろうということに気付いていた。彼女のように生きるには、自分は、弱すぎる。彼女のような強さは、圭一郎にはない。
たとえば好きな人が出来たとしても、こっそりと胸の内で想い続ける、そんな恋が圭一郎の恋だった。姉のように気持ちを相手に伝え、そこから先へと進展することは決してない。圭一郎の恋は、自己完結型の後ろ向きなものだった。
由布はまだ十歳だったが、積極的な自分の母とは違い、圭一郎が消極的な種類の人間だということに、早い時期から気付いていた。事あるごとに圭一郎を自分の母と比較し、母ならこうするだろうと考えて、圭一郎にあれこれと口うるさく言っていた。時には励まし、時には叱り付けながら、圭一郎が早く恋人と呼べる人を家に連れて来ないだろうかと、密かに楽しみにしていたのだ。
もしかしたら圭一郎の恋人候補というのがどこかに現れたのかもしれないと、由布はそんな風に睨んでいる。
気になる人の出現で、何をしていても身の入らない状態が続く──もしや圭一郎は、恋の病とやらに罹ってしまったのではないだろうか。
「圭ちゃん……」
どうやって圭一郎から聞き出そうかとあれこれ考えながら由布が口を開いたところへ、玄関のブザーが警報のように鳴った。
「はーい」
母が帰宅したのかと思った由布が喜び勇んで玄関に飛び出して行くと、こわもての大柄な学生らしき男の人が、ドアの向こうに立ち尽くしていた。
「あのさ……」
圭一郎の部屋にまんまと上がり込むことの出来た朝木は、やや緊張した面持ちで口を開いた。
「え……と、なに?」
警戒しながらも圭一郎は、ちらりと上目遣いに朝木を見た。
学校では制服姿の朝木だが、今日は違う。Vネックのセーターにジーンズ姿の朝木は妙に大人びて見える。
圭一郎はまともに朝木を見ることが出来ないでいた。
なんだか気恥ずかしいのと怖いのとで、正面から彼を見ることが出来ないのだ。
「あのさ…──」
朝木も今日は何となく歯切れが悪いようで、先程から二人はずっとこの状態が続いている。
「えーと、その……」
朝木が再び口を開いたところに、缶コーヒーを持って由布が部屋に入ってきた。
「ママがいないから温かいコーヒー買ってきたよ。お菓子ないけど、いいよね?」
由布のしっかりとした物言いに対して、圭一郎は頼りなさそうな様子で返した。
「うん、ありがとう、由布ちゃん」
「あ、そうだ……この人、圭ちゃんのお友達?」
由布の言葉に圭一郎は、曖昧に頷いた。自分が朝木をどのように思っているのか、立場を決め兼ねているようにも受け取れる。
「ねえ、圭ちゃんを泣かさないでね」
何を思ったのか、由布はそう言い残して、二人に背を向けた。部屋を出る時、由布の咎めるような視線が朝木を捕える。
「バーカ。泣かすわけがねぇだろ」
低い声で朝木は言い放ち、小学生を相手に薮睨みに睨み付けた。
温かい缶コーヒーを手にして、圭一郎は押し黙っている。
何か言わなければと思うのだが、言葉が出てこない。
何を話せばいいのだろう。
自分は社会人で、相手はまだ高校生。話しをしようにも、何を話題にすればいいのか、それすらもわからない。
圭一郎がもぞもぞと居心地悪そうに身動きしているうちに、朝木は缶コーヒーのプルトップを引いて中身を一息に飲み干した。
「あのさ……」
と、朝木。
「うん、何?」
手にした缶コーヒーのラベルをじっと眺めながら、圭一郎は小さな声で返す。
「あのさ、俺、圭一郎のこと好きだぜ」
圭一郎は自分の頬が急速的に赤くなるのを感じていた。
耳たぶと、頬と……目のあたりも何だか、熱い。熱が出ているのとはまた違った、緊張した時のような感じがしている。
「圭一郎は、俺のこと……」
朝木が言いかけた刹那、ドアがバタン、と大きな音を立てて開いた。
二人共、一瞬びくりとし、朝木に到っては圭一郎からわずかに距離を取って座り直したほどだった。
「ダメ! 圭ちゃんの恋人はあたしが見付けるんだから!」
明らかに盗み聞きをしていたと思われる様子の由布がドアのところに立ちはだかっていた。ものすごい形相で由布は、朝木を睨み付けている。
「るせぇっ、ガキは引っ込んでろ!」
朝木が応酬すると、由布は圭一郎の服の肩口を引っ張って、耳打ちした。
「圭ちゃん、こんなのと付き合ったりしちゃダメじゃん。圭ちゃんにはもっと大人しくて優しい色白の女の子が似合うんだから、こんな変な奴に引っかからないようにしなきゃ」
怖いもの知らずの由布は、物怖じもせずに言い放つ。母親似なんだなと、妙なところで圭一郎は感心していた。
「圭ちゃん、聞いてる?」
と、由布。
「あ……ああ、ごめん、由布ちゃん」
「もうっ……もしかして圭ちゃん、こーゆーのがタイプなわけ?」
咎めるような由布の言葉に、圭一郎はぽっと頬を赤らめた。
「えっ……違う、違うよ、由布ちゃん、誤解だよ!」
顔を真っ赤にして否定する圭一郎だが、否定すれば否定するほど、肯定しているように由布には見えた。
朝木はむっとした表情で圭一郎と由布のやりとりを眺めていたが、そのうちに苛々と立ち上がり、二人を上から見下ろした。
「俺は圭一郎が好きなんだよ、悪いか、ええっ?!」
吐き捨てるように朝木は言うと、そのままバタバタと部屋を飛び出してしまった。
学校に行くのは気が引ける。
圭一郎は、仕事をするために学校に行かなければならないのだと自分に言い聞かせると、嫌々ながら家を出た。
朝木に会うのが怖かった。
二十七歳の自分は、十七歳だった頃の自分よりも引込み思案で消極的になっている。十七歳の朝木のように自分に正直にすることもできない。かといって今の圭一郎は、自分の胸の内を押え込んだままでいることも出来ないのだが。
朝木の素直さが羨ましかった。
自分に正直に。当たり前のようにそうすることの出来る朝木に惹かれている自分は、このまま姉や由布や、自分の居場所に隠れていてはいけないはずだ。朝木に何らかの答えを返してやる義務がある。そうしなければ、朝木に対しても失礼だろう。
とりあえず、圭一郎は職場へと向かう。
朝木にどう返答するかはまだ考えていないが、まずは隠れ処から出るのが先決だった。
そうしなければ、先へ進むことは出来ない。
昨日の今日で、朝木が事務室へ顔を出すことはないのではないかと圭一郎は密かに期待をしていた。が、朝木は今朝もいつものように事務室の窓からひょっこりと顔を出し、「おはよう」と挨拶を投げかけてきた。
昨日のことがまだ尾を引いている圭一郎は、少しぶっきらぼうに頷いただけだった。
別に何があったというわけでもない。
なのに圭一郎は、恥ずかしかった。
何故だかわからない。
だけど、恥ずかしいのだ。
朝木と顔を合わせるのが。言葉を交わすのが、とてつもなく恥ずかしい。
その反面、心の底では朝木に会いたくて会いたくて、仕方がない。すぐ近くで彼の顔を見て、言葉を交わしたいと思っている。
相反する気持ちは、圭一郎の手に余るほど強い想いになっていた。
休みの時間になるといつものように朝木はやってきて、いつもと同じように事務室を覗いた。
唯一の救いは、昨日のことを朝木が気にかけていない様子だということ。
圭一郎も同じように昨日のことを思い出さないようにと努力したが、頭の中ではぐるぐると朝木の言葉が回っている。
「俺は圭一郎が好きなんだよ、悪いか、ええっ?!」
朝木が帰り際に叫んだ言葉は、甘い甘い囁きのように感じられた。頭の中では朝木の言葉が堂々巡りを続けており、朝からずっと圭一郎の思考力は奪われっぱなしだ。
そうして、そんな圭一郎もまた、朝木に好意を抱いている。
間違いない。これはきっと、恋だ。圭一郎はそう確信していた。
授業が終わると朝木はそそくさと、事務室へやってきた。
「今日は待っててやるよ、圭一郎の仕事が終わるの」
そう言って、朝木は空いている椅子にどすんと腰を下ろし、圭一郎の姿をじっと見つめた。
見られていると思うと、気恥ずかしくなってしまう。
圭一郎はただ普通に仕事をしているだけなのに、何となく頬が熱かった。
「……あのさ、そうじっと見てられると気が散るから……」
圭一郎が思いきって言うと、朝木は、
「あ、悪い、悪い」
立ち上がって事務室の片隅にある冷蔵庫を漁りにいった。
「勝手にもらうけどいいよな」
そう言うと朝木は、中に入っていたスポーツドリンクを勝手に出してきてごくごくと飲んでしまう。圭一郎が注意をするまでいつだって、こんな調子だ。
うわべだけは無関心を装いながら、圭一郎は仕事を続ける。
何か喋りたいと思いながらも、言葉が口から出てこない。
そのうちに一通り仕事が片付き、帰る時間になった。
圭一郎が荷物をまとめてふと朝木のほうを見ると、彼はまた、何とも言えないようなあの穏やかな眼差しでこちらをじっと見つめていた。
「帰るのか?」
朝木に尋ねられ、圭一郎は小さく頷く。
朝木が怖かった。
何を言い出すのかわからないのが、とてつもなく圭一郎には恐ろしかった。予測できない行動をする相手は、苦手なのだ。
「俺も一緒に帰るかな」
朝木がにっこりと笑うと、何故だかわからないが圭一郎は少しほっとした。
二人で一緒に学校を出た。
のろのろとした足取りでだらだらと続く坂を下っていく。
普段は車で出勤している圭一郎だったが、今日は珍しくバスで出勤してきている。朝木に掴まった帰りは、徒歩になった。
「……俺さ、圭一郎のこと好きだわぁ」
二人で並んで歩いていると、また、朝木が言った。
圭一郎は何も答えられずにそのまま歩き続ける。
これも告白の言葉……に、なるのだろうか?
もうずっと長いこと、圭一郎はこの言葉を朝木から聞かされ続けている。圭一郎が返事もせずに放ったらかしにしている間に、一瞬の出来事だったが唇も奪われている。そろそろ何か、圭一郎のほうからアクションを起こさなければならないところまできているのかもしれない。
「そんでさ、圭一郎は俺のこと、好き?」
言えるわけないのに……。
返せるわけがないのに、それでも朝木はいけしゃあしゃあと尋いてくる。
圭一郎は下を向いて、歩き続ける自分の靴の爪先をじっと見た。
冬の夕暮れのせいで、足元がよく見えない。藍色に染まり出した空の残映が、ちらちらと目の端に見え隠れしている。
「僕は二十七歳で、男で……友達ならいくらでもいるだろう、朝木にだって。見た目だって悪くないし、女の子だってあっという間に寄ってくるだろうし。僕のことが好きでなくちゃならないことなんて、全然ないと思うよ?」
圭一郎の言葉に、朝木はどこかしらむっとしたようだった。
「向こうから寄ってくるのは信用できないんだよ」
と、朝木はぽつりと言う。
圭一郎はそれきり、何も言い返せない。
朝木の言葉に対する答えは、今の自分の言葉かもしれないと、ぼんやりと頭の隅っこで考えながら、圭一郎は歩き続けた。
気まずい雰囲気が漂い、夕暮れの風は頬に痛かった。
坂を下りきると、すぐのところに学校専用の駐輪場がある。校内にもあるのだが、坂の上の学校なので、坂の上がり口にも駐輪場を設けてあるのだとか。
朝木は走って自転車を取りに行くと、そのまま圭一郎の横を自転車に乗ったままふらふらとついてくる。
圭一郎はなかなか言葉の出てこない自分に嫌気が差していた。朝木はこんなに一生懸命、自分に構ってくれているのに。それなのに自分は、彼が喜ぶような受け答えができない。朝木の言葉に対しても、まともに返答をしたわけではない。自分が朝木の立場だったら、いい加減に嫌気が差してきている頃のはずだ。
「圭一郎……圭、待てよ」
不意に朝木は圭一郎の正面に回り込んで、言った。
「俺のこと、好きか? 本当はどう思ってるのか、答えろよ」
立ち止まった圭一郎は、朝木が乗った自転車のハンドルのあたりをじっと見つめていた。朝木を見るのはためらわれた。見なくても、彼が今、どんな顔をしているかもわかるような気がした。
「いつまでも逃げてないで、いい加減に答えてくれてもいいと思うぜ? 俺は、ずっと言ってる。圭一郎のことが好きだ、って。だけどお前はどうなんだよ、ええ?」
とうとうやってきた、この瞬間が……。
圭一郎はきゅっと唇を噛み締めて、下を向いた。
言い出せない。
色々なしがらみが圭一郎の胸の内で渦巻いていて、素直に言葉が出てこない。
「──…わからない」
わからないわけではない。もう、わかっているのに。圭一郎の心の中では、答えははっきりと出ているのに。
「わからない?」
苛々と朝木は言って、自転車から降りた。支えのなくなった自転車はバランスを失って、地面へと倒れ込む。
「自分のことだろ、なんでわからない?」
そう言って朝木は、いきなり圭一郎の頬を両手で包み込む。
二人の目が合って、それからすぐに、圭一郎は視線を逸らした。
朝木の唇がゆっくりと近付いてきて……夕闇の中、二人の唇はしっとりと合わさった。
一度目のキスは事務室でだった。
二度目は、往来だ。
あの場所から逃げるようにして走り去った圭一郎は、自分の部屋でぼんやりとしていた。
頬が熱くて、耳たぶが熱くて……なんだか熱っぽくて、全身がぼーっとなってしまったようだ。
あの後、逃げるように帰宅した圭一郎は食事もそこそこに部屋に引き上げると、布団の中に潜り込んでじっと息を殺していた。頭の中に、朝木の声と唇の感触が蘇ってくる。妄想の中で圭一郎は何度も、何度も、朝木に唇を奪われた。
そのうちに眠気が差してきてうとうととしていると、由布が部屋に入ってきた。
「圭ちゃん、お客さんだよ。この間、遊びにきてた人」
声をかけられて慌てて布団から抜け出すと、部屋の入り口に私服姿の朝木がのっそりと立ち尽くしているのが目に入ってくる。
「あ……」
呆然としているうちに由布は部屋を出て行き、入れ違いに朝木が部屋に入った。ドアがパタンと閉り、部屋の中には気まずい沈黙が広がった。
「──…今度は逃げるなよ」
朝木の言葉に、圭一郎は身動きが取れなくなってしまう。元はと言えば、あの場所から逃げ出した自分に非があるのだから、何を言われようと仕方がない。しゅんと下を向いて、圭一郎は朝木が何か言うのを待った。
朝木はゆっくりと近付いてくる。
静かに、獲物を狙う肉食動物の足取りで、圭一郎の側へとやってくる。
朝木の手が、圭一郎のほうへと伸ばされた。
殴られるのだろうか?
瞬間、圭一郎は反射的に身を竦め、ぎゅっと目をつぶった。
──だが、いつまでたっても何も起こらなかった。
いや、そうではない。
朝木の手は圭一郎の顎を引き寄せ、激しい口付けを与えていた。
湿った音が耳に入ってくると圭一郎はわずかに身を強ばらせ、朝木から離れようと腕を突っぱねた。
「圭一郎……圭……」
圭一郎の耳元で、朝木が低く囁く。
微かな朝木の吐息に、圭一郎は深く密やかに息を吐いた。息が上がりそうになるぐらいまで唇を吸われ、互いの唾液を堪能した。
圭一郎の頭の中では警鐘が鳴り響いていたが、それすらもどうでもいいような気になった。
自分はずっと、朝木にこうされたいと望んでいたのだ。頭の中で、ずっとずっとそう、願っていた。
キスをして、唇を貪り尽くし、相手の唾液を喉の奥に流し込み……それから、ゆっくりと一つになりたいと、心の奥底で思っていた。
これまではその気持ちを隠そうとしていたけれども、もう、止まらない。
このまま流されてしまいそうだ。
圭一郎の心の中にはまだ、様々なしがらみがある。思惑が溢れていて、それらのことを考えると、このまま流されてはいけないと、理性が歯止めをかけようとしてくる。なのに、身体は言うことを聞いてくれない。拒絶しなければと頭の中でもう一人の自分が叫んでいるのに、指一本、思い通りに動いてくれない。
朝木の唇は官能的で、手は、大胆だった。
圭一郎の思考をすべて剥ぎ取ろうとするかのように、執拗に求めてくる。
二人は膝立ちになった姿勢のまま、抱き合っていた。
荒い息の下、圭一郎は朝木の手がスウェットの裾から脇腹のあたりをまさぐり、乳首へと辿り着いたのを感じた。
「ヤらせてくれよ、圭……」
朝木が耳元で言うのに、圭一郎は小さく頷く。
二人とも男なのだとか自分のしがらみだとか、そんなことはもう、どこかへ綺麗さっぱり消え去っていて、目の前の快楽を追いかけることしか圭一郎には見えていない。
「ん……いい、よ……」
うつむき加減のまま圭一郎が返すと、朝木の手はスウェットの下に手を入れてきた。
覚悟を決めて圭一郎が目を閉じようとする──…その瞬間、ドアがバタン、と開いた。
「圭一郎、ヤるなら余所でヤってきなさい!」
怒りのこもったアルトの声は、帰宅したばかりの圭一郎の姉のものだった。
姉に注意をされた圭一郎は、決まりが悪くてそのまま家を出た。
そのほうがずっと帰りにくくなるのにと朝木が言うと、圭一郎は更に頑なになって外泊するつもりだから構わないと言い出した。
「外泊って、行くアテはあんのかよ?」
朝木が尋ねると、圭一郎は駅前のビジネスホテルに泊まるつもりだから心配するなと言って、にっこりと笑った。
「……もしかしてそれってさ、俺も一緒に行っていいのかナ?」
と、朝木。
圭一郎は初め、自分が何を言ったのか解らないようだったが、しばらく考えて、朝木の言葉を理解したようだった。
あっという間に顔が真っ赤になり、それから慌てて否定の言葉を口にし始めた。
「ちちち…違う、違うって! そーゆー意味で言ってるんじゃなくって……」
両手をばたばたと振り上げて言い直しているうちに、足がもつれてよろけてしまう。
「おっと」
と、朝木がよろけた身体を支え、ついでに軽く唇を合わせると、ようやく落ち着いたのか圭一郎は大人しくなった。
「圭一郎ってさ、ガキみたいだな」
くすくすと笑って朝木は、圭一郎の顔を覗き込んできた。
優しい、深く澄んだ眼差しが圭一郎を見つめている。
圭一郎は慌てて視線を逸らすと、ぷっと頬を膨らませた。
「ほっといてくれ。どうせ僕は二十七で、童顔だ」
「でもって、童貞……だったっけ?」
「ち・が・う! そっちが老け顔なだけだろ」
むきになって圭一郎は言い返す。朝木は豪快に笑って背後から圭一郎にぎゅっと抱きついてきた。
「俺は別に気にしないぜ、圭一郎が童貞でもそうでなくても」
朝木の言葉に、圭一郎はまたしても顔を赤らめる。
こんなにも胸がどきどきしているのも、顔が赤いのも、きっとみんな朝木のせいだ。朝木が側にいて、馬鹿なことを言ってきては圭一郎に触りたがるからだ。全部、朝木が悪い。何もかも朝木のせいだ。
「なぁ、俺も一緒にホテルに行っていい?」
低く甘い囁きに、圭一郎は耳まで真っ赤にして頷いた。
何だかんだと言いながら、圭一郎だって期待しているのだ。
「よし、じゃ、行こう」
朝木が嬉しそうに言い放った。
ぐいぐいと腕を引っ張られながら、圭一郎は駅前のビジネスホテルへと歩いていく。
朝木に腕を引っ張られながら、こんな日々も悪くないなと心の中で思ってみたりもした。
もしかしたら、自分の殻にこもって過ごす日々よりも、朝木と二人で過ごす日々のほうが楽しいかもしれない。
姉や由布はあまりいい顔をしないかもしれないが、圭一郎の思う通りにやってみたいと思っていた。
間違いでもいい。
たとえ朝木との日々が間違いだらけの日々になろうとも、一緒に過ごしてみたい。一緒に、その先に何が待ち受けているのかを見てみたいと圭一郎は思っていた。
「言っておくけど、エッチはなしだぞ!」
圭一郎が言う。
朝木は「はいはい」と答えながらも、どうやって行為に及ぼうかとあれこれ思案を始めたようだ。
そんな朝木の横顔を盗み見ながら、圭一郎は小さく口元に笑みを浮かべていた。
明日は、学校で朝木に言ってやろう。「好きだよ」と、小さな声で秘密の言葉を耳元に囁いてやろう。
それが、朝木への返事。
今まで放っておいた朝木への、小さな小さな、罪滅ぼしだ。
「明日は学校へ行くぞ」
圭一郎はふと、独り言を洩らした。
「え、なに、何て言ったんだ、今?」
朝木が尋ねるのに圭一郎は、にやりと視線を流してみせた。
「明日は学校に行くのが楽しみだ、って言ったんだよ」
嫌々ではなくて、仕事だから行くのではなくて、自分から行きたいと思うようになった学校へ、行こう。
圭一郎は楽しそうに笑った。
明日のことを考えて。
朝木とのこれからを考えて。
楽しそうに、明日の朝のことを考えた。
暗がりの道を駅前まで歩いていくと、二人は何食わぬ顔をしてホテルに入る。
すれ違う者は皆、圭一郎の期待に満ちた口元に幸せそうな笑みが浮かんでいることに気付ずかずにはいられなかった。
「明日は、学校へ行こう」
圭一郎はもう一度、口の中で呟いた。
二人は黙ってホテルのエレベータに乗り込んだ。
部屋に入るまで圭一郎は、こっそりと朝木の腕を掴んで決して離そうとしなかった。
END
(H12.12.11)
(H24.8.20改稿)
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