人気のない夕方の校庭で、良平はキスをした。
子供っぽい翔の頬と、それから唇に。
春休み中の中学校はしんと静まり返っており、誰もいない。優しいオレンジ色の夕日が、二人を包み込んでいた。
最初、翔は良平の行為に戸惑っていたが、しばらくするとぎゅっと良平のシャツの胸元を握り締め、必死になって彼の唇と舌に応えていた。
「可愛いな……」
キスの合間に良平がぼそりと囁くと、翔は耳まで真っ赤に染めてうつむいた。
ほんの二週間ばかり前のことだ──
「俺らみたいなのを腐れ縁って言うんだよな、きっと」
ハンバーガーにかぶりつきながら、翔が言った。
翔の私立高合格が発表され、良平の就職が決まった翌日のことだ。
二人はファーストフードの奥まったテーブルで、二人だけのお祝いをした。
色白腕白の塩崎翔は、四月からは晴れて高校一年生。一見したところ黒縁眼鏡が似合うがり勉君タイプの森岡良平は新米高校教師。それぞれに進路も決まり、これまでの緊張の糸がぷっつりと切れてしまったのか、その日は顔を合わした瞬間から二人ともハイ・テンションを維持していた。
翔と良平。
端から見ると、少し年の離れた兄弟か、従兄のように見えないでもない。八つ違いの友人だと二人はよく言っているが、そのバランスがどうも最近、あまりよろしくない。
その理由に良平は、気付いていた。
多分……おそらく、二人互いに好きあっているようなところがあるから、だ。
良平は、姉と妹に挟まれた女系家族で肩身の狭い生活を送っていた。男兄弟がほしいと子供の頃には思っていたが、残念ながら母は、三人も産めば充分と、良平に弟を作ってはくれなかったのだ。一方の翔は、甘えたれの一人っ子。子供の頃からお兄ちゃんのいる家庭に憧れており、両親にお兄ちゃんを産んでほしいと言い続けた小学校時代に、良平と出会った。
翔と良平のつながりは、草野球だ。
翔は、小学校へ上がると同時に近所の草野球チームに入った。そのチームの監督の甥っ子が、良平だった。良平は野球をすることはなかったが、チームの試合になると、必ず応援に駆けつけてくれた。片手に本を抱えた黒縁眼鏡のお兄さんは、あっという間に翔の理想のお兄ちゃんとなったのだった。
二人のバランスが危うくなり始めたのは、いつ頃からだろう。
良平にはそれがいつ頃のことなのか、よくわからない。わからないが、とにかくふと気付くと、翔が隣にいることがごく自然なことになっていたのだ。
好き…──そう、この気持ちは、好意の気持ちだと良平が気付いたのは、翔が中学に上がった頃のことだ。
中学、高校と、女の子達と普通に付き合って、そこそこ本気でエッチもした。大学に入って、本気でなくてもエッチは出来るのだと知った。その頃からちょうど、翔のことが気になりだした。翔のことを気にしないようにと、女の子たちとあちこちを遊び歩いた。複数の女の子と同時に付き合い、エッチを重ねた。
だけど、良平の心の奥にはいつも翔の姿があった。
短気で、ちょっとばかし喧嘩っ早くって、おっちょこちょいで、泣き虫で、よく笑い、よく食べる翔。
多分、良平にとって翔は、理想の弟。
そして同時に、こんな子を恋人にしたいと良平は、心の奥底で思い始めていた。
ファーストフードを後にした二人は、街をうろついた。
この間まで翔が通っていた中学に行こうと言い出したのは、もしかしたら良平のほうだったかもしれない。どちらから言い出したのか、今となってはおぼろげでよく分らない。とにかく、休み中で誰もいない中学校へ行って、探検してみようという話になっていたのは確かだ。
二人は中学校へと向かった。
翔の自転車を良平が漕ぎ、翔はというと、後ろの荷台のところにしがみついて鼻歌を歌っていた。
「翔……やっぱ若者が自転車漕ぐのが一番じゃないか?」
良平が荒い息の下から言葉を放つと、
「りょーちゃん、年取ったな」
翔は笑って言った。
「これしきの坂、もっとスピード上げて走ろうぜ?」
そう言われて良平は更に疲労感を感じた。小高い峠はまだ中腹にもさしかかっていない。それなのにこんなに自転車が……特に荷台が重いなんて。
「頭脳派の僕としては、ここらで自転車を降りてもらいたいんだけどな」
良平の言葉に、翔は快く同意を示した。
「ラジャッ。降りて、押してやるよ、しゃーないから」
良平が自転車をとめるまでもなかった。翔はそのまま荷台から飛び降りて、後ろから自転車を押してくれた。
峠を越えると、下り坂が続く。その坂の終わりに中学校が見えている。翔が三年間通った学び舎だ。
二人は転がるように坂を下りた。良平は自転車で、翔は子供のように両手を大きく広げて走って、坂をくだった。
「俺、いっちばーん!」
校門の柵に飛びつき、翔が言った。良平が止める間もなかった。
呆れたように溜息をつくと良平は、自転車を校門の脇に停める。最近ではどこの学校でも設置されているだろう警備システムが作動する様子もなく、良平は、翔に遅れて柵によじ登る。それから二人同時に、地面に着地した。
春休み中の学校は、静かで、誰もいなくて、少し寂しい。
四月からはここには来ないのだと改めて考えると、翔の鼻の奥はつんとして、涙が出てきそうになる。
「翔、教室のほう行ってみよう」
と、良平。
翔は慌てて歩き出した良平の後を追い、勢いよく腕にしがみついていった。じゃれ合いながら昇降口へ行くと、教師専用の出入り口となっている非常口の一つが運良く開いていた。
「ラッキー」
翔は飛び跳ねるようにして良平の前に後ろになりながら、歩いていく。
だから警備システムは作動しなかったのだなと、良平は思う。学生たちは春休み中でも、教職員には今のうちに片付けてしまわなければならない仕事があるのだ。
「どこかで誰かと鉢合わせするかもな」
悪戯っぽく良平が言うと、翔はそんなことはないとクスクスと笑った。
そっと息を殺して、二人は校舎内へと忍び込む。
翔は自分のクラスだった教室へと足を向ける。残念ながらこの中学の出身ではない良平には、何の感慨も湧かない。それでも翔は、そんな良平を尻目にあちこちを指差しては懐かしそうに、中学生活の思い出を語り続けた。
「あーあ……四月から高校生かぁ……」
静まり返った教室の中に、翔の残念そうな声が響く。
それまで、黙って窓際の机に腰かけて外を見ていた良平は、ふと翔のほうを見遣り、尋ねた。
「なんだ翔、高校行きたくないのか?」
良平の言葉に翔は、慌てて首を横に振る。
「違う、違う。そうじゃなくってさ。なんだか、俺も年取ったな──って思ってね」
へへっ、と照れくさそうに笑う翔の横顔に夕日の照り返しが反射して、眩しかった。
良平は目を細めて翔を見ていた。
休みの間、この中学校のチャイムは朝の始業時間と夕方の閉校の時間のみに鳴るように設定されていた。
閉校のチャイムが鳴るのと同時に二人は我に返り、慌てて校庭に飛び出した。
人気のない校庭。
夕日が差して、校舎は赤く燃えているように見える。
二人して駆け足で校庭の中程まで来たが、不意に翔が立ち止まって校舎を振り返った。
「どうした、翔?」
良平も立ち止まって、翔を振り返る。
「うん……」
どことなく寂しげな、翔の横顔。
「俺さ……ここの生徒だったんだな、って思っただけ。それだけ」
無理に笑うと、今にも泣き出してしまうのではないかと思えるほどに翔は気弱な顔になる。良平は翔のところへ行くと、両肩にそっと手を置いた。
「──卒業式の時にも言ったけど」
低く、静かな良平の声が翔の耳元を掠める。
「卒業、おめでとう。それから、高校合格おめでとう」
翔は顔をくしゃくしゃにして、返した。
「りょーちゃんも……おめでとう。就職決まってよかったね」
二人はしばらくそのままで互いの温もりを感じていたが、そのうちに良平が心持ち腰をかがめた。
「これから三年間、よろしくな」
良平の囁きに翔が何か返そうとすると、顎を捕らえられた。
ごつごつした大人の男の指は、温かくて優しかった。
キスした勢いのまま、二人は良平の部屋に場所を移した。
翔の頭の中はぼーっとなっていた。
やたらクリアで、やたら鮮明で。それなのに自分は流されていると、翔はそんな風に思った。
友達の家に泊まりに行く感覚で何度も一人住まいの良平の部屋に泊まったことのある翔だったが、今日は少しばかり勝手が違うようだ。
「……オレンジジュースかコーラか、飲む?」
シャワーを浴びたばかりの良平が尋ねた。良平の手には、ビールの缶が握られている。
先に寝室に通されていた翔はどぎまぎしながら、いらない、と返した。この部屋にだって何度も出入りしているのに、それなのにこんなにどきどきするなんてと、翔は心の中で不思議に思う。友達と、友達ではない関係とでは、感じ方がこんなにも違うだなんて。
「いらない? でも、後でほしくなるかもしれないし、ここに置いとくからな」
半ば無理矢理、良平はコーラの缶をベッド脇のサイドテーブルに置いた。
「灯かりは点けたままでもいいかな?」
ベッドに腰かけた翔の隣に並ぶようにした座った良平の言葉に、翔はびくりと身体を震わせる。
まるで小動物が驚いた時のようなその仕草に、良平は小さく笑った。
「シャワー浴びといで」
軽く肩を叩いてやると、翔は安心したのか、ほっとした笑みを浮かべて頷いた。
少しぬるめのお湯につかりながら翔は、どうしてこんなことになったのか、ぼんやりと考えていた。
翔の高校合格と、良平の就職のお祝いにファーストフードでお祝いをした…──その時にはまだ、こんなことになるなんて思いもしなかった。それから二人で翔がついこの間、卒業したばかりの中学校に行って、教室を覗いて……それから、キス。校庭で。多分、誰もいなかったと思うし、見られてないと思うけれどと、翔は小さく口の中で呟いた。夕日の照り返しが薄紅色からオレンジ色に変わる瞬間で、とても綺麗だったのを覚えている。
翔の知っている良平はいつも本の虫で、だけど優しくて面白くて、時々は意地悪で。勉強は、しょっちゅう教えてもらった。良平がガールフレンドと付き合っているという話を本人から聞いたことはなかったけれど、それでも、女の子の存在を感じることが少なくはなかった。それなのに何故、自分は今、良平の部屋にいるのだろうか。
良平は、キスの合間に「可愛いな」と翔に囁きかけた。
可愛いから? 翔が可愛いから、それだけの理由でこんな、女の子とするようなことを良平は、翔にしようとしているのだろうか?
ぶくぶくぶく……と、翔は湯船の中で溜め息を吐き出してみる。そうすれば、答えが浮き上がってくるのではないかと少しの期待を込めて。
答えは結局、浮き上がってはこなかった。
翔は諦めて、バスタブから離れた。ベッドの中では良平が待っているはずだ。あまり待たせると、なんだか翔自身が期待しているようで、恥ずかしかった。
部屋に戻ると良平は、電話をしていた。
翔がサイドテーブルの時計に目をやると、時間は夕方の七時半過ぎだった。まだこんなに早い時間だったんだと、翔は思った。
良平が電話をしている姿を見てほっとした翔は、大人しくベッドに座って待つことにした。
「──……え? だから駄目だって言ってるだろ。就職先がやっと決まったんだから、無茶言うなよ……うん、そう……うん、わかってるって……」
あの話し方だと多分、電話の相手は良平の家族だ。翔はサイドテーブルの上に置いてあったコーラの缶を手に取った。少しぬるくなっている。蓋をあけるとシュワッという音がした。口に含んだコーラはやはりぬるまずくて、炭酸がきつかった。
「ごめん、お待たせ」
そうこうしているうちに電話が終わったのか、部屋に良平が戻ってきた。
「暗くするよ」
良平が言うのとほぼ同時に、灯かりが消えた。
窓から入ってくる月明かりがぼんやりと部屋の中を照らし、互いの姿を浮き上がらせる。
「翔は、本当にこんなことして平気? いいの?」
と、良平が最後の逃げ場を用意してくれが、翔は黙って頷いただけだった。
「俺さ……りょーちゃんならいいかも……って、思ってる」
まだ、戸惑いと大きな不安とが翔の心の中には渦巻いている。だけどそれ以上に、良平と一緒にいたいという気持ちのほうが強かった。その一緒にいたいという気持ちは、もしかしたら友達に対する単なる親愛の情なのかもしれない。しかし今の翔にはまだ、その気持ちがどういった種類のものかまでは判断がつけられなかった。
「じゃ、遠慮なく」
良平はそう言って、翔の口を自分の唇で塞いだ。
何度も何度も、良平の唇は翔の唇へと被さってきた。良平の唇はしっとりと湿っていた。触れると熱くて、翔は自分を見失ってしまいそうになった。
「女のコと、したことある?」
ベッドに横たえられた翔は、良平に尋ねられた。
「ううん、ない……」
翔は、良平にも同じことを尋ね返してみようかと思ったが、やめた。良平が複数の女の子と付き合っていたことは知っているし、彼女たちの何人かとはエッチをしたこともあるはずだ。わざわざそれを確認するのは、何だかためらわれた。
「……じゃあ、今日はちょっとだけ、な」
悪戯っぽく笑って、良平は言った。
少し掠れ気味のハスキーな声は、翔の心臓をどきん、と大きく脈打たせた。
キス、キス、キス……そしてまた、キス。
何度も、何度も、何度も。
良平は執拗に、唇と舌での愛撫を繰り返した。唇、耳の後ろから首筋、鎖骨、乳首……お臍のあたりに触れられると翔はびくびくと身体を震わせる。
それから良平は、ゆっくりと翔の中心へと指を滑らせた。
「……りょーちゃんっ……りょーちゃん、りょーちゃんっっ…──!」
制止の声なのか、それとも違うのか、翔自身にもわからなくなっていた。
わからないけれど、無性に良平の名を呼びたかった。良平に力いっぱい抱きしめていてほしいと翔は、思っていた。
「──…今日は、ここまでな」
良平はそう言うと素早く体勢を変え、翔の股間に顔を押し付けた。青々としてまだ少し幼い中心を良平が頬張ると、つんとした若いにおいが口の中に広がる。
「あ……やっ…りょーちゃ……」
翔の手が、良平の髪を鷲掴みにする。
良平は口の中のものをゆっくりと味わいながら、舌でつついてみた。
「あっっ……」
翔が声をあげる。
良平は抵抗を怖れていたが、翔は良平の髪を掴んだだけで、それ以上の抵抗は見せなかった。それどころか、良平が角度を変えて舌を這わせるごとに、気持ちのいいところへと導こうとした。
嫌がられているわけではないのだと知った良平は、安心したのか、指で翔の袋のところを揉みしだいた。ペニスに軽く歯を立てると、翔はぎゅっと身体を反らした。良平は唇をすぼめると、翔がもっと気持ち良くなることが出来るよう、夢中でしゃぶり続けた。
頭の中が良平一色になってしまっても、不思議と嫌な感じはしなかった。身体中を指と舌と唇とで触られるのも、すごく気持ちがよくて、困ってしまったほどだ。陰毛がびっしりと生えたところから立ち上がったものにかけてを愛撫されると、嬌声が出た。女の子みたいな、だけど女の子ではない、男の子の翔の声だった。
最後には目尻に涙をいっぱいに溜めて、翔はイッた。
良平の唇は優しくて、翔をいっぱい困らせた。
ヘンな声は出たし、身体のところどころに朱色の跡が浮き上がっているし……何よりも、良平の口の中に翔は、粗相をしてしまったのだ。
初めてのエッチは、困ったことだらけだった。
だけど翔は、気付いていた。
自分が、もうずっと昔、良平と出会った頃から、彼に好意を抱いていたことに。良平が翔のことを意識しだした頃から、翔もまた、良平を意識し始めていた。互いに好き同士だったのだと思うと、翔は、なんだか自然と口許に笑みが浮かんできて、また困ってしまった。
「なんだよ、気持ち悪い。思い出し笑いか?」
薄闇の中で、良平が言った。
「あ……えーと……うん」
暗がりで良かったと思いながら、翔。まだ、頬が熱い。エッチの余韻が残っていて、良平の声を耳にするだけで翔の全身は真っ赤に染まってしまいそうだった。
「──俺たちってさ、腐れ縁じゃなくって、似たもの同士、って言うんだよね?」
「はぁ? ナニ言ってんだ、お前」
訳の分らぬ良平はそう言うと、翔の髪をくしゃくしゃとした。
「いいんだよ。俺がわかってりゃそれでいいの」
少しふて腐れて翔が返すと、良平は意地悪くにやりと笑った。
「それより、今度はいつエッチしたい?」
一瞬にして翔の顔が真っ赤に染まり、闇の中で心臓がどきどきと動悸を響かせ始める。
「いいいいいいいいつって……俺、別にそんな……」
そんな翔を目を凝らして見つめる良平は、楽しそうに言葉を返したのだった。
「僕たちが似たもの同士だって言ったのは翔のほうだぜ? 僕は、今すぐにでも翔とエッチしたいね。今から続きをしたっていいけど、お楽しみは先に延ばすからいいんだ。いつ、する?」
ストレートな良平の物言いに翔は絶句する。「あー」とか「うー」とか「いー」とかを連呼して困り果てた挙げ句、翔が入部を希望している野球部でレギュラーの座を獲得することができたら、ということで手を打ってもらった。
「じゃあ、その時にはお祝いでもっと気持ちイイことしてあげるから、期待してなさい」
良平が言うのに、もっと気持ちイイことというのがどういうものなのか解っていない翔はただただ頷くしかなかった。
そうして。
二人の始まりの朝が、近付いてくる──
END
(H12.9.20)
(H24.4.22改稿)
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