翔が、怪我をした。
自転車で学校からの帰宅途中、コンクリートの壁にぶつかったという話だ。
新米教師の森岡良平はその時、学校で翌日の授業の用意をしていた。
電話をかけてきたのは近所の花屋の店員だった。そちらの学校の生徒さんが怪我をして、うちの店に電話を借りに来られました。塩崎君という、一年の生徒さんです。自力で救急車を呼んで、今頃は救急病院に着いているかと思いますけれど、ご一報まで。若い女性の声はそう告げると、静かに受話器を置いた。
電話を取ったのは、良平と同期の有科だった。
「森岡先生、塩崎って言ったら、先生のクラスの生徒でしたね?」
尋ねられた途端、良平の頭の中は真っ白になった。
塩崎翔は八つ年下の幼馴染で、良平が初めて受け持ったクラスの生徒で……そして、個人的に大切にしている子でもあった。
突然のことでどうしたらいいのか解らなくなってしまったようで、ただ呆然とその場に立ち尽くしていたと、後になって有科から良平は聞いた。
「教頭と校長には俺から連絡取りますから、森岡先生、病院に向かってもらえますか?」
そう言われても、気の抜けた声で「はぁ……」と返すことしか良平には出来ない。
このままでは埒があかないと思ったのか、有科は車を持っている別の教師に良平を救急病院まで連れて行くように指示した。
良平がぼーっとしている間に事は迅速に運び、気が付いた時には「塩崎翔」と札のかかった病室の前に立っていたのだった。
「あっ、りょーちゃん!」
良平が恐る恐る病室のドアを開けた途端、素っ頓狂な声が中から上がった。
「……りょーちゃん、じゃないだろ」
ほっとしたのか、口の端にうっすらと苦笑いを浮かべて良平は返した。
「電話がかかってきたぞ、学校に」
良平が言うのに、翔は「へぇ、そうなんだ」と、屈託なく言う。
「坂道でブレーキかけそびれてコンクリートの壁に激突したんだ。……あそこの壁、ボロっちい割に結構頑丈なんだよな……自転車が大破してさ、もう、すごいの何のって……──」
右肩に巻き付けられた白い包帯を鬱陶しそうに睨み付けて、翔は喋り続ける。自転車の運転を誤るなんて自分でも信じられないことだと、翔はまくしたてている。
しばらく聞き手に回って翔の話を聞いていると、担当医らしき白衣の男性が翔の母親と一緒に病室へと入ってきた。
「まあ、良平君……来てくれてたのね」
翔の母はまだ少し心配そうだったが、良平の顔を見たことでかなりほっとしたようだった。
「……とりあえず今日明日はここで様子を見て、問題がなかったら後は自宅療養でも大丈夫でしょう」
医者の言葉に母親は頷いた。二日だけのことになりそうだったので翔一人で病院で過ごすことが決まった。登校ができるようになっても怪我が完治するまでのしばらくは良平が車で登下校させることになった。
「良平君が同じ学校に勤務しててよかったわ、本当に」
胸を張って任せてくださいとは言えなかった。
後ろめたい気分の良平は、曖昧な笑顔で返すことしか出来なかった。
退院する翔を病院まで迎えに行ったのも、良平だった。
翔の父親が車を持っているものの現在は海外赴任中で、車は車庫で眠っている。母親が免許を持っていないからだ。翔の母はタクシーで迎えに行くと言ったのだが、翔が良平に車で迎えに来てもらうから必要ないと強引に言い張ったのだった。
授業や何だで夕方遅くなってから迎えに来た良平に、翔は甘えっぱなしだった。
お兄ちゃん子なのね、と二人を兄弟だと思った看護婦たちが口々に言った。良平はただただ苦笑するばかりで、翔はというとにこにこと愛想を振り撒いての退院となった。
「ばーか。ナニ、にやついてんだよ」
やや乱暴に車を発進させた良平が、言った。
「え、だってさ、今のうちじゃん、甘えられるのって」
と、翔は続ける。
「怪我が治ったら我が侭なんて聞いてもらえなくなるからさ、今のうちに言いたい放題しとこうかな、と思って……」
確かに一理ある。良平は呆れたように溜め息を吐いた。
「おばさん、心配しっぱなしだったぞ」
いさめるように良平が言うと、翔はそんなことないよ、と答えた。
「りょーちゃんは知らないだろうけどさ、俺、むちゃくちゃ怒られたんだぞ。そりゃ、ちょっとは心配したみたいだけど……」
「当たり前だ」
と、良平。
それから二人は翔の家に着くまで黙りこくったままだった。
車が翔の家の前の路地に入ったところで、翔が呟いた。
「りょーちゃんは?」
良平は知らん顔をして、のろのろ運転で車を進める。
「りょーちゃんは、心配した?」
ハンドルを握る良平の顔を、翔は覗き込んでくる。
「俺のこと、ちゃんと心配してくれた?」
良平は難しい顔をしていた。あまり翔がお目にかかったことのない、厳しい表情をしている。
「──…当たり前だろう」
随分と経ってから、良平がぽそりと言った。
車のエンジン音がやけに大きく耳に響いてくる。
「新学期が始まって一週間足らずなのに受け持ちのクラスの生徒が事故で病院に担ぎ込まれるなんて……就任早々に首が飛ぶんじゃないかと気が気じゃなかったんだぞ、こっちは」
「むっ……りょーちゃんて、冷たい」
かちゃかちゃと音を立てて翔はシートベルトを外そうとするが、片手なのと怒りのためとで手が思うように動かず、なかなか外れてくれない。
「りょーちゃんてさ、昔っからそういう冷めたとこ、あるよね。いつもいつも人に気を持たせておいてさっ……」
「そうかな?」
「そうだよ!」
声を荒げた瞬間、シートベルトが外れた。
「別にいいよ、迎えに来てくれなくても。俺一人で登校するから」
ヒステリックに告げて翔は車を降りようとする。
良平はタイミングを見計らって、背後からふわりと翔を抱きしめた。
「ちゃんと迎えにくるから玄関で大人しくしてろよな」
どきりとした翔の耳の後ろに、しっとりとした唇が素早く押し付けられた。
三日後、良平の車でのお迎えが始まった。
翔は、退院の日に良平に言われた通り、玄関口で大人しく迎えを待っていた。
「りょーちゃん!」
良平の車が家の前に停まると、翔は嬉しそうに手を振る。
「へへっ……おはよ、りょーちゃん」
少し照れ臭そうに笑って翔が言うのに、良平も笑って答える。
「おはよう。肩は大丈夫そうか?」
「うん、大丈夫。元気百倍、ファイト一発、すっげー元気」
車でお迎えの初日の今日は、いつもより少し早い時間に家を出た。学校へ行く前に良平が寄りたいところがあると言ったからだ。
「それよりさ、どこに寄るの?」
「秘密」
「えーっ……なんで?」
「プライベートな用事だから、翔は知らなくてもいいんだよ」
良平は意地悪く言う。
「ふーんだ、ケチっ」
二人がそんな言葉を交わしているうちに、車は坂の途中に差しかかった。事故を起こした時に翔が電話を借りた花屋が、すぐ目の前に見えている。
良平は車を停めると、翔に車から降りるようにと言った。
「電話を貸してくれた人がどの人か、覚えているか?」
良平が尋ねるのに、シートベルトを外しながら翔はこくりと頷いた。
「あの人……ほら、入り口で掃除してる人」
「じゃ、お礼言ってこい」
お店の人には、母親がお礼を言いに来ているはずだ。しかしそのことは口に出さずに、翔は車を降りた。翔の母親と一緒に良平も、挨拶をしに来ていたはずだったから。
「あの……おはようございます」
翔が声をかけると、店先を掃除していた若い女性は顔を上げた。ショートカットの、見るからに華奢な感じの女性だ。胸のところにつけた名札には「武藤」と書かれている。
「──…あ、おはようございます」
最初は怪訝そうな声だった彼女も、翔の包帯で吊るした右腕を見て、事故を起こした学生だと気付いたらしい。
「怪我、大丈夫だった?」
ちょっと心配そうに尋ねられ、翔は愛想よく答えた。
「うん、大丈夫。電話貸してくれて、ありがとうございました」
「あら、どういたしまして」
「あの後、お店の人に怒られなかった?」
翔が尋ねると、店員は明るく笑って首を振った。
「君のお家の方と担任の先生がわざわざお礼を言いに来られてね、怒られるどころか、逆に誉められちゃった」
悪戯っぽく店員が微笑むのに、翔はほっとした。
「よかった」
しばらく二人して立ち尽くしていると、店の奥から声がした。
「むとちゃん、こっちのお花も表に出してくれる?」
中年の女の人の声だ。むとちゃんと呼ばれた彼女は朗らかに「はーい」と返した。
「ごめんね、もう行かなくちゃ」
翔のほうも、そろそろ車に戻らなければ。
「今度、お礼に花を買いにくるね」
翔がそう言うと、店員は手を振って店の奥へと消えていった。
「りょーちゃん、今度、あの店で花買おうね」
車に戻った途端、翔はそう言った。翔の言葉に良平は怪訝そうに眉をひそめるしかなかった。
「花なんか買ってどうするんだ?」
「さあ?」
「無責任な奴だ。お前が買えよ」
「え、やだよ。俺、小遣い少ないもん。お給料もらってる森岡センセイ、花買って」
翔がお愛想をして食い下がるのに、良平はむすっと顔をしかめる。
「なんで花なんか。だいたい、お前に花なんかやったって仕方がないだろう」
「そんなことないかもよ?」
嘘だ。そんなこと、ある。こいつに花なんか買っていいことがあるもんか──良平は心の中でたっぷり十秒間考えてから、返した。
「わかった、来月の誕生日に買ってやるよ」
──そのかわり、元は取らせてもらうからな。
ハンドルを切りながら、良平は心の中で呟いた。
何も知らない翔は一人で喋り続けており、いつの間にかクラスのことに話題を移していた。
楽しみだと、良平は思った。
来月の翔の誕生日にはリクエスト通り花を届けてやろう。その代わり……考え出すと、きりがない。にやにやと笑っていると、翔に脇腹を小突かれた。
「朝っぱらからにやにやしてるとキモチ悪がられても知らないよ、りょーちゃん」
「ふふん」
と笑って、良平は翔をちらりと横目で見た。
車は学校の裏手にある駐車場に入っていく。シートベルトを外すふりをして、良平は翔の唇を奪った。
「さっきの言葉、覚えとけよ」
あまり覚えていたくないものだと、一瞬にして翔は警戒を露わにした。良平の口からこの言葉が出る時は、要注意だ。
授業が始まる前にはきれいさっぱり忘れてしまおうと、翔は密かに心の中で誓ったのだった。
──五月。
翔の誕生日の前日、良平は花を買いに例の店へと行った。
あれから少しだけ親しくなった武藤という名の若い店員とは、店の前を通りかかると挨拶を交わす仲になっていた。
「あら、いらっしゃいませ」
良平の姿に気付いた例の店員が快活に声をかけてくる。
「花を、もらいたいんだけど」
と、良平。
閉店直前のカウンターには、数人の店員が集まってレジを触っている。ありがたいことにお客は良平一人だった。
「はい、どの花にしましょう?」
尋ねられて良平は、すかさず返した。
「二千円ぐらいでこう、ちょっと殺風景な部屋に置いても邪魔にならないような感じの花束で……においのきつくないのにしてもらえないかな」
「はぁ……」
店員はちらりと良平の顔を覗き込んで、それから花を選びにかかる。
「あ、いや、友達がね、誕生日で……」
別に尋ねられたわけでもないのに、良平はぼそぼそと言い訳がましく口を開いた。
「友達っていっても高校生なんだけどね、男の子で……誕生日に花がほしいって言うんだけど、どういった花を買えばいいのかわからなくって……それで、その…君なら何かいいアドバイスをしてくれるんじゃないかと思って……すごくいい子なんだよ、その子。野球が好きでね、子供の頃から野球、野球で、高校に入っても野球一筋の頑張り屋で……──」
店員は笑い出しそうになるのをぐっとこらえて、花を手早くまとめた。
「はい、どうぞ。あまりにおいのきつくないのを選んだつもりなんですけど、お気に召すかどうか……」
手渡された花を受け取った良平は代金を渡し、満足そうな笑みを浮かべて車へと戻っていこうとする。
その瞬間、店の中で、女性ばかりの店員たちのかしましい声が響き渡った。熱心に何事かを喋っているようだったが、良平が聞き取れるほど大きな声ではなかった。別段、聞きたいとも思わない良平は、気にもせずに車に乗り込んだ。
花束を乗せた車が走り去ると、店内は若い店員たちの黄色い声で一層賑やかになった。
「えー、嘘でしょ?」
「本当ですよぉ。男の子にあげる花だって、はっきり言ってましたもん、あのお客さん」
「リーマンが、男子高校生に花束って……やばくない?」
「いやーん、あの人、よく店の前歩いてるよねぇ?」
「あ、あたし知ってる。一頃、車で高校生の男の子乗せて前の道走ってたじゃん」
「ねえねえそれって、シチュエーションがちょっとおいしくない?」
「ナイスよ、むとちゃん。今度またあのお客さんが来たら、こっそり教えてね」
車を走らせながら良平は、豪快なくしゃみをしていた。
くしゃみの原因が彼女たちだとはこれっぽっちも気付きもせずに、にまにまと笑いながら良平は車を運転する。良平の部屋では翔が、誕生日のプレゼントを今か今かと心待ちにしているはずだ。
さて、どんなお返しを要求しようか──楽しそうに目を細め、良平は車を走らせる。
翔のリクエスト通り、花束を用意したのだ。それに見合うだけのお返しを期待するのは当然だろう。
どんなお返しをしてもらおうかとあれこれ考える良平は、にやにやと口許にエッチな笑みを浮かべたまま、夕暮れの道を急ぐのだった。
END
(H12.9.23)
(H24.4.22改稿)
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