見えない棘  1

「あ、悪い……」
  廊下の曲がり角で、塩崎翔は女の子とぶつかった。
  黒目がちの大きな潤んだ瞳、少し気の強そうな感じの、背の高い女の子だ。真っ白なブラウスに紺色のベストとスカート……どこの学校の生徒か知らないが、女子高生なのは確かだろう。それにしても平日の放課後に一人で男子校に足を踏み入れるとは。
  もっとも、杉澤学院は授業のない放課後には学校を開放しており、校内の様々な施設を利用してもらうべく一般市民の出入りは基本的に自由となっている。それにしても妙なのは、翔が今いる棟は一般開放区画ではないということだ。
  翔は相手の顔を見た。翔よりも彼女のほうが十センチほど背が高いので、自然と見上げるような形になってしまったのが気に入らない。
「謝らなくてもいいわよ、お互い様なんだから」
  アルトの声は、落ち着いていて、オトナだった。
「それよりも…──」
  と、彼女は続ける。
「ここに森岡って教師がいるって聞いてきたんだけど」
  尋ねられて、翔は少しばかり警戒した。
  森岡という名を耳にして翔の頭に浮かんできたのは森岡良平だった。翔の担任で、八つ違いの幼馴染で、それ以上の関係を持っている、たった一人の人間。
「りょ……森岡先生なら、図書室だと思うよ」
  翔がそう返すと、彼女は言った。
「そう。じゃ、案内してくれる?」
  多分、会えないだろうと思うけど──翔はその言葉をぐっと飲み込んで、図書室へと彼女を案内した。



  乱雑に机の上に積み上げていた指導書やら教本やらを隅のほうに寄せて、良平は自分の肩を軽くトントンと叩いた。
  国語教師のための準備室は、図書室の三つ手前の部屋にあった。教材や辞書、参考書が所狭しと並べられた部屋は静かで、良平はここをいたく気に入っていた。校内には他に三人の国語教師がいたが、一人は図書室に入り浸っており、もう一人は職員室がお気に入り、そして最後の一人は授業にあまり力を入れたくないタイプのため、良平が準備室の主と化していた。
「さて、そろそろ帰るか」
  水曜日は早く帰る日と決めている。教師の残業を少しでも減らすため、週の真ん中の水曜日は、部活動のないクラブが多かった。良平は創作部の顧問をしており、月に一度の部会の時に顔を出すだけで後は免除されていた。
  問題は、翔のほうだった──野球部に入部した翔は、毎日、朝から晩まで野球漬けの生活を送っている。たまの休日には同級生と遊びに行くと言って良平との約束を反古するような行為にまで及んだ時には、さすがにむっとしたものだ。この夏休みだってすれ違いが多く、ほとんど一緒に過ごすことは出来なかった。そんな二人が気兼ねなく会うことの出来る日が、水曜日の放課後なのだ。
「店屋物、ファーストフード、ファミレス、コンビニ……どれにするかな」
  呑気に呟いて、良平は帰り支度を始めた。
  鼻歌を歌いながら鞄の中に小テスト用の原稿用紙を詰めていると、廊下を歩く足音が聞こえてきた。
  生徒が二人だな──良平は思って、ドアのところでしばらく待つ。帰り際に生徒と顔を合わせていいことがあったためしはない。時間差で廊下に出た瞬間、図書室のドアが閉るのが見えた。足音の主は、どうやら図書室に用があったらしい。
「こんな日は、厄介事と鉢合わせする前にさっさと帰るに限るな」
  良平はそそくさと準備室を後にする。
  この時、図書室に入っていったのが翔だったと知っていたなら、良平はすぐにでも後を追っていただろう。翔と一緒にいる女の子の存在を知っていたなら尚更だったはずだ。
  しかし良平は、これっぽっちも知らなかった。
  翔のことも、彼女の存在も、そして自分が酷く危険な状況に陥りかけているということも、何一つとして知りはしなかった──



  良平が借りている部屋は、3DKの結構いい部屋だ。駅からそう遠くはないし、スーパーも近くにあり、地の利がいいところに建っている。訳有りのために破格の値で契約を結んでいるのだが、今のところこれといって問題はない。同僚の有科に言わせると、どうせ車で出勤するのなら実家から通えばいいのに、わざわざ学校と反対の方角に部屋を借りるなんてどうかしてるということだが、そんなことを気にするような良平ではない。
  学校と反対の方角に部屋を借りたのは、翔との間にわざと一定の距離を保とうとしたからだ。
  悪い意味での一定の距離ではないと、良平は考えている。
  互いに、相手のことだけしか見えなくなるのを防ぐため。側にいればそれだけ、一緒にいたいと思う時間が長くなるのではないかと考えた良平は、学校から五分のところにあるアパートを断って、今のアパートと契約をした。
  この部屋は学校からは歩いて四十分ほど、翔の家からとなると一時間近くかかるが、別に構わない。
  翔だって他の生徒と同じように携帯を持っている。良平のほうから気を付けて電話をかけるようにしてやれば……と、ここまで考えてから良平は、苦笑する。
  この三月までは年の離れた友人付き合いをしていたというのに、何をそんなに警戒しているのだ、と。
  恋人同士とまではいかなくても、学校で毎日顔を合わせる時間が嫌というほどあるではないか。
  十年来の幼馴染だ。
  心配しなくとも大丈夫。今までだって、うまくやってきた。八つ違いの年の差を乗り越えて、親友としてうまくやってきたではないか。
  そう、大丈夫。
  親友から恋人に、互いのポジションが微妙に変わったぐらい、どうってことはないだろう。
  良平は駐車場に車を入れると、足早に自分の部屋へと向かったのだった。



「嘘吐き!」
  威嚇するように彼女が翔を睨み付ける。
  翔も負けじと彼女を睨み返した。
「ここにいるって言ったじゃない。なんでいないのよ、森岡って教師は。ここにいるんじゃなかったの?」
  責めるような彼女の口調に、翔は知らないよ、とかぶりを振った。
「俺は、先生が図書室にいると思ったからそう言っただけで、絶対にいるとは言ってないよ」
  言い返した途端、力任せに頬を打たれた。
「男なんて、サイテーなやつばっかり。森岡って奴に言っといてよ、地獄に堕ちろって。樹里に手を出しておいて、いらなくなったら捨てるなんて、あたしが許さない」
  翔は呆然と、自分の頬を張り倒した相手を見つめている。
「近いうちにまた来るから、今の言葉、ちゃんと伝えておいてよね」
  高飛車な眼差しで見下ろされ、翔はさらに苛々を募らせる。しかし、いくらなんでも女の子に手をあげるわけにはいかないだろう。この場はぐっと堪えて、拳を握り締めるだけに留めた。
「じゃあね、野球部の塩崎翔君」
  彼女は悪意を込めてそう言うと、ひらひらと手を振って図書室を出ていった。
「なんで……なんで知ってんだよ、俺の名前……?」
  ぽつりと翔は、呟いた。



  帰宅した翔は、私服に着替えるとすぐに家を出た。
  自転車に飛び乗ると、坂道を駆け降り、駅の向こうにある良平のアパートへと向かう。
  良平に尋ねたいことがあった。
  ──樹里って、誰?  手を出しといて捨てたって、本当?
  頭の中をぐるぐると、疑問が渦巻いている。
  放課後、良平を訪ねてきた彼女はいったい何者だったのだろう。
  どうも、樹里とかいう女性の関係者らしいが……それにしても、どうして彼女が翔の名前を知っていたのだろうか。
  だいたい、良平と関係のあった女性が何故、翔の名前なんかを?  良平が言ったのだろうか。翔と付き合うから、別れよう、とでも。それとも、彼女が勝手に翔の名を調べ上げたのだろうか。良平と関わりのある人間を片っ端から調べていって、たまたま翔に声をかけただけなのだろうか。それとも……
  翔はペダルを漕ぎながら、川沿いの道を猛スピードで走り抜けた。
  国道を行き交う車の流れに逆らって、ひたすら走り続けて良平のアパートに辿り着いた時には頭の中がごちゃごちゃで、何も解らなくなっていた。
  ドアの前で翔がしばらく立ち尽くしていると、突然、中から良平が出てきた。
「……お、翔、来たのか」
「りょーちゃん……」
  力なく翔は、ドアのところに立つ良平に目を向ける。
「どうした、翔?」
  ぎゅっと唇を噛み締めて翔は、良平を見上げていた。
  良平のほうが根負けして、先に口を開いた。
「腹、減ってないか?」
  翔は勢いよく良平の胸の中に飛び込んでいき……小さな弱々しい声で、呟く。
「──ファミレスでグラタン食べたい」



  食欲旺盛な高校一年生は、注文した皿の料理を片っ端から平らげていった。
  第一希望のグラタンに始まり、ハンバーグ、オムレツと制覇して、ドリンクバーのコーラ五杯で最後を締めた。
「落ち着いたか?」
  どことなく不機嫌そうに、良平が尋ねる。
  翔は、にっこりと笑って返事をした。
「お腹のほうはね」
  まだ、足りない。良平の口からあの女の子のことを聞き出さない限り、翔の気持ちが落ち着くことはないだろう。
「……さっき、さ」
  と、ウェイトレスが最後の皿を下げるのを見届けてから、翔は喋り始めた。
「すっげー美人、見たんだ」
「へー、そりゃよかったな」
  翔の言葉に、良平は興味のなさそうな顔をする。
「高校生だと思うんだけどさ、ちょっと意地悪そうな感じで……」
  良平は、黙ってコーヒーを啜っている。
「りょーちゃんのこと、訊かれたよ」
  思い切って翔は言った。が、良平は、思い当たる節がないのか、それとも思い当たることが多すぎて見当もつかないのか、怪訝そうな表情をするばかりだった。



  良平のアパートにのこのこと上がり込んだ翔は、我が物顔でテレビの前に陣取っていた。
  例の女の子のことを、良平の口から何か一言聞き出すことが出来ないものかと、ファミレスから戻る車の中でずっと考えていたのだ、翔は。
  今のところ、何もいい考えは浮かんでこない。
  それどころか、良平の「そろそろ家に帰れよ」の言葉が耳に痛かった。
  まったく。誰のせいでこんなに悩んでると思ってるんだよ…──口の中で呟いて、翔はテレビに集中しているふりをする。こうなれば長期戦も厭わない覚悟だった。
「翔、そろそろ帰る用意しろ。車、出すから」
  見ていたドラマが終わり次週の予告が流れるのを尻目に、良平が口うるさく言った。この言葉を耳にするのはさっきから何度目だろう。翔はちらりと顔を上げ、返した。
「この後のドラマが終わったらね」
  本当は、帰る気なんて、ないのに。
  それでも翔はとりあえず、帰るつもりはあるのだとアピールしている。
  良平は随分と苛々しているようだった。キッチンへ消えたかと思うと、バタン、と冷蔵庫のドアが大きな音を立てて閉る音が聞こえてくる。少し、しつこくしすぎたかもしれない。
  部屋に戻ってきた良平は、ビールの缶を手にしていた。
「帰りたくなったら自分の足で帰れよ、翔」
  冷たい、見下したような残酷な色が一瞬、良平の目の中に現れ、そして消えた。
  翔は聞こえなかったふりをして、テレビに意識を集中した。
  なんでこんなことになったのだろうと、翔はぼんやりと思う。翔はただ、良平の口からある女の子のことを聞き出したいだけなのに。それなのに、良平は尋ねる隙を与えてはくれない。やんわりとした、透明なバリケードを築いて翔の言葉をはじき返そうとしている。
  翔はテレビに集中するふりをしながら、横目で良平の様子を伺っている。
  良平の一挙一動を、細やかな表情まで読み取ろうとするかのように、じっと眺めている。
  ドラマが中盤にさしかかったところで、良平は立ち上がり、部屋を出ていった。しっかりと翔に釘をさして。
「ちょっとそこのコンビニ行ってくるから、帰るならさっさと帰れよ」
  ドアが、無愛想にパタンと閉まった。



  いつもなら、車で家の前まで送ってくれるのに。
  良平が閉めたドアを翔は、恨めしそうに見つめていた。
  良平のほうから、彼女のことを話してはくれないのだろうか。翔が駄々をこねて聞き出さなければ、教えてはくれないのだろうか。
  棘が、痛かった。
  翔の胸に刺さった、小さな小さな、見えない棘。
  翔の心を波立たせ、苛立たせ、不安にさせる唯一の棘。
  良平の顔を見ると、つい平気そうな態度を取ってしまうけれど、そうじゃない。そうではなくて、本当は、気になって気になって、仕方がないのに。彼女のことが。彼女の言っていたことが。
  真実を、知りたい。今すぐに。
  良平の口から本当のことを話してもらって、ぎゅっと抱きしめてほしい。
  彼女のことは、お前が気にするようなことじゃないんだと、そう、甘い声で囁いてほしい。
  翔は、本当はこれっぽっも見ていなかったテレビを消すと、表へ出た。
  帰るわけではない。
  良平の、帰りを待つだけだ。
  靴の踵を履き潰して、ドアにもたれて良平を待つ。
  一分、二分、三分……五分、十分、十五分……。
  あまりにも遅いのではないかと翔が苛々し始めた時、階段を駆け上がる足音が聞こえてきた。そして、人の話し声。二人、いる?
  ドアにもたれた格好のままで翔が階段のほうへと視線を馳せると、ちょうど良平がこちらへとやって来るところだった。その後に続くようにして、彼女が足早に歩いてくる。
  ──嫌だ。
  翔は、きりきりと胸のあたりが痛むのを感じていた。
  嫌だ、嫌だ、嫌だ……!
  心の中で叫んでから、翔は二人の姿をしっかりとその目に捕えた。
「翔、中に入ってろ」
  軽く舌打ちをしてから良平は、言った。
  翔は何も答えずにじっとその場に立ち尽くしている。動くことが出来なかった。足が、鉛のように急に重くなってしまい、一歩も歩くことが出来ないのだ。
「森岡先生、今日は逃げないでね。話を聞いてもらうまであたしは、ここから動かないつもりだから」
  放課後、翔が出会った気の強そうな女の子が、良平を睨み付けている。射抜くような鋭い眼差しだ。
「……じゃあ、朝までここにいればいい」
  冷たく言い放つと良平は、翔の腕を掴んで部屋に上がろうとした。
「りょーちゃん……あの子、なんでここにいるんだよ?」
  不意に、掠れた小さな声が良平の耳に届いた。翔は腕の力だけで、良平の手を振りほどいた。
「翔……」
「なんで……」
  と、翔は彼女を見据えると、声を張り上げた。
「なんでいるんだよ、ここに!」
「森岡先生に制裁を加えるためよ」
  馬鹿にしたような眼差しで、すかさず彼女はそう言った。
「あたしの大事な後輩をふった男には、それだけの罰を与えなきゃ」
  あっけらかんと彼女は言う。彼女は男を嫌っているなと、良平は思った。どうやら彼女は、良平一人ではなく、樹里とか言う女に言い寄る全ての男を憎んでいるようだ。
「可哀想な樹里。森岡先生がどこにでもいるような馬鹿な男だと知らずに付き合ってしまったばっかりに……」
  にやりと笑う狡猾な眼差しが、翔を捕える。
「それで……君は森岡先生の味方なのかしら、塩崎翔君?」
  馬鹿にしたような口許。嫌な感じの女だと、密かに翔は思った。
「──今日のところはもう遅い。帰ってくれないか」
  と、良平が二人の間に身体を割り込ませてくる。
「明日でも明後日でも、君の都合のいい時に時間を空けるから、とりあえず今日のところは勘弁してくれないか?」
  言いながら良平は、樹里とかいう女のことを思い出そうとしていた。



  女の子は、良平の部屋を後にした。
  良平の申し出に妥協して、この次の日曜日に、彼女が指定した場所で会うことが決まった。場所の指定は明日、ポストにメモ切れを入れておくということで話がついている。
「──いったいなんなんだ、あの女は?」
「なんなんだよ、あの女!」
  部屋に入るなり、二人は同時に口にしていた。
  翔は怪訝そうな顔をして、続けた。
「何言ってんだよ、りょーちゃん。本当は知ってるんじゃないの?  今の子も、樹里って人のことも……」
  良平は首を傾げて、呟いた。
「さぁ……まるきり身に覚えがないんだけどな、僕には」
  嘘吐き。翔は口の中で呟いて、良平を睨みつけた。
  翔の心に刺さった小さな刺は今、じわじわと傷口を広げながらゆっくり、心臓へと向かって動き始めた。
  良平の言葉が信じられない。
  信じられないことだが、良平が何を言っても嘘をついているように思えてならなかった。
「──痛…い……」
  翔は床に座り込むと、掠れた声で呟く。精神的な疲労感が襲ってきて、立ち上がることもできないほどだ。
「りょーちゃん……痛いよ……」
  震える声で翔は微かに呻いた。ぽたぽたと涙が床に落ち、小さな水溜まりを作り上げていく。
  翔はしばらくそうやって、泣き続けていた。



END
(H12.9.28)
(H24.4.22改稿)



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