守護精霊

<プロローグ>

「今後十年に渡って、お前は謹慎すべし」
「理由は分かっておろうな」
「いいや、追放じゃ。追放にせい」
「お前なぞ帰ってこんでもええ。さっさと出ていけ」
  声が、そこかしこで反響した。
  取り囲む大人たち。
  恐ろしい形相で、彼らはたった一人の子どもを責めていた。激しい怒りと嫉妬の入り交じったその声は、子どもを、自分たちの楽園から追い出そうとしていた。
  幼く、まだ何も知らない小さな子どもを、だ。
「さあ」
  声は、厳しく子どもを促した。
「行ってしまえ」
「二度と戻ってくるな」
「我らが恥!  出来損ないの、愚か者よ」
「──イェンよ」
  不意に、取り囲み、激怒する大人たちのあいだから、一つの声が優しく降り注いだ。
  穏やかな調子の声は、他の大人たちのように怒ってはいなかった。
「行っておいで。外の世界を見ておいで。そしていつか、この地へ戻ってくるが良い。お前の両親のところへ帰るもよし、どこか別の場所へ行くもよし。好きなようにするがいい」
「シノエ……」
  イェンと呼ばれた子どもは、顔を上げて老人を見た。
「行きなさい。十年が過ぎたら、また、会おう」
  約束の十年間は、この地には戻れない。
  この、仲間たちの地には。
  シノエ老は、まだしゃんとした背中をすっきりと伸ばして赤毛の子どもを見下ろす。
「また、会おう。シノエ」
  赤毛の子どもはそう言って、にやりと口の端を歪めた。
  自分を四年もの間育ててくれた老人は、酷く優しい笑みを浮かべると、早くこの地を去るようにと告げた。
  イェンは頷き、その地を去った。
  七つの時のことだ。
  三才で普通の子どもとは違うと言われて親元を離れた子どもが、今度は、持て余されて親元へ送り返されるのだ。
  行き場のない子ども。
  しかし、当の本人は気にもかけていない様子だった。一人の見送りもないままに、かの地、神聖なる<火の島(ライ)>を去った。
  そう。
  イェンは、生まれながらにして精霊の加護を得ていた。
  豊穣神──四大精霊のうち、炎を司るサラマンドラの守りが強く、この子が生まれた時には火の気のなかった暖炉に勢いよく炎が燃え上がったとか。ぐずって泣き出すと、必ずと言っていいほど炉辺の炎の勢いが強まった。生まれた子どもの扱いにほとほと困り果てた両親は、生後間もないその子を<火の島>へと送り出したのだ。
  <火の島>には、遠い昔から、魔法の力が存在した。そしてこの島には、精霊の加護を得た、プレイアと呼ばれる御魂使いたちの育成の場のようなものが設けられていた。
  イェンは<火の島>に送られた。
  が、しばらくして、<火の島>の御魂使いたちは、様々な意味で、イェンを扱うには相当の力がなければならないということに気付いた。
  そして、ついに大人の手に負えなくなる日がやってきた。
  イェンは<火の島>を追放された。
  事実上の、破門、ということだろうか。どちらにしても、イェンを守護する精霊の力が弱まるか、イェン自身が精霊を上手く手懐けるかしなければ、再び<火の島>に戻ることは許されないだろう。
  赤毛の子どもは一人、船に乗った。
  生まれ故郷の<闇の街(ガヤフ)>へと戻るために。
  イェンは、あまりにも大きすぎる力を持っていたのだ。



<1>

  閑寂とした田舎道を小さな荷馬車が、大きな騒がしい音を立てながら、ゆっくりと進んで行く。
  御者台に座るのは、精悍な体付きの青年──トライオと言った。柔らかな金の髪に、碧色の瞳。故郷<光の街(ルグオ)>での騎士生活に嫌気を感じた彼は、旅に出て、四度目の夏を迎えようとしていた。
  荷馬車には幌が張ってあり、その中には銀髪の少年と黒髪の美女がいた。
  女のほうは、エレ…エレ・アウル・ヴィクトーラと言う。<白の街(アーデロ)>の古代魔法使いにして、今は、旅回りの占者をしている。
  今一人の少年は、ルクスティア・ニト・サイノン。銀の髪と、サファイアのように澄んだ青蒼色の二つの瞳を持つ。
  三人は、長い長い旅を続けていた。
  この四年の間、彼らは逃げ続けていた。<光の街>の騎士と、旧の力を持つ青い影から。
  一度として、一つ処に長く留まったことはない。
  何故なら、追いかけてくるものたちがあまりにも的確に、彼らの居場所を嗅ぎ付けたからだ。逃げるだけで精一杯の日々が続いている。そういえば、ここ何日かはずっと焚き火の側で夜を明かしている。
  筋肉の張った肩をほぐしつつ、トライオは辺りの景色に目をやった。
  どこまで行っても田畑が続いているだけの、寂れた田舎。いや、寂れてはいない。潤っている。確かに街独特のあの、活気に満ちた雰囲気はなかったが、それでもこの村には、かなりの財産があった。村人たちは気付いてはいないかもしれないが、よく肥えた田畑に、血色のよい子どもたち。
  わあわあと何かを叫び合いながら馬車の脇を駆け抜けて行く子どもたちを横目に、金髪の青年は幌の中の二人に声をかけた。
「どうする?  この辺りで宿を取るか」
  言った瞬間、ルキア──ルクスティアの蒼い瞳に影が射す。側にいたエレの長衣の裾をしっかりと握りしめ、困ったようにこの少年はトライオの顔を見上げた。
「…ま、ルキアが嫌なら別に構わないが」
  言いながら、言外に未練を残している。
  人見知りが激しいというのか、ルキアは、極度の対人恐怖症だった。それは、トライオがルキアと知り合った四年前ら変わることはない。今でもエレとトライオ以外の人間に声をかけられると、青い顔をして人のいないところへと逃げ込んでしまう。ルキア自身、これではいけないと思っているのだが、どうしても治すことができないでいた。
「宿を取りましょう。野営ばかりしていては、貴方の身体がもちませんわ」
  きっぱりとエレが言う。
  野営のときは、トライオは決まって幌の外で休んだ。
  エレとルキアは幌の下で熟睡することができたが、それもこれもみな、トライオが夜通し見張りをしていてくれるからのこと。エレは、そんな彼のことを気遣って言ったのだ。
「ルキア、いいわね」
  エレの言葉にルキアは、素直に頷いた。



<2>

  村外れに建つ宿屋は、酷く寂れたところだった。建物の周囲を、ずさんに伸びきった枝を震わせた木々が取り囲んでいる。
  とても人など泊まりそうにないところに、三人は部屋を取った。
  もっとも、宿と言っても、村の人間が大勢集まるときに集会所代わりに使われる程度のものだったが。そのため今は、この宿に泊まる客はルキアたち三人だけだった。
「ゆっくりしてって下さいよ、お客さん。こんな田舎町に来る物好きなんざ、滅多にないからねえ」
  ジョッキを片手に声をかけた人当たりの好い宿屋の女将は、背の低い小太りの中年女だった。宿で働くのは年取った庭師と、台所を預かる年頃の娘。それに、女将の弟を加える。
  最初にトライオが説明しておいたのがよかったのか、女将を始め、三人は、ルキアには必要以上に近付かないようにと気を遣ってくれた。エレとトライオが一緒の時のみ、女将はルキアに会話を振った。それ以外は、ルキアの返事を期待するでもなく、陽気に独りで会話を楽しんでいる。もっとも、今のところルキアは自分の部屋にこもっているようだったが。
  トライオは曖昧な笑みを口許に浮かべると、女将の手から木製のジョッキを受け取った。
  酸味がきついだけの生温い麦酒を一息で飲み干すと、口のなかに微かな苦みが残る。だが、そんなことはどうでもいいような気がした。長い長い旅の間に、味覚が麻痺してしまったのか。
「……でも、昔は栄えていたのでしょう?」
  一緒にテーブルについていたエレが、女将に尋ねかける。
「ああ、大昔はね。<風の街(モバダ)>の支配下に入る前は、随分と景気がよかったんだけどねぇ……今じゃ、どこに行ったって寂れた田舎だからね、この街は」
  大袈裟に肩を竦めると、女将は困ったように笑みを浮かべた。
  昔、この<闇の街>は完全に独立した街だった。それが、つい百年かそこら昔に<闇の街>の王に対して不満を持つ者が現れ、改革を行った。そのときに手を貸したのが、<風の街>の王だと言われている。<闇の街>の王を倒した<風の街>の王は、以後、<闇の街>を自らの支配下に置くと宣言した。何故なら当時、<闇の街>は<黒の街>とも呼ばれた、頽廃と悪徳の街だったからだ。
  今、すっかり田舎臭くなって干からびた<闇の街>には、他の街に満ち溢れているような活気がない。子どもたちはみすぼらしく、いつも何かに飢えているような瞳で大人たちを見る。大人たちは大人たちで、無気力な表情で世間を見る。まるで、自分たちがどう足掻こうとも誰も助けてはくれないのだと言わんばかりに。
「だからここに来たんですよ」
  誰にも聞こえないようにぽそりと呟いて、トライオは裏のほうへと耳を傾けた。
  声が、聞こえてきた。
  賑やかな、子どもたちのわめき声。活気がないと言っても、ここの子どもたちは元気が良い。他の街と同じぐらい、いや、もしかしたらそれ以上に元気が良いかもしれない。
「早くしろよ、おい」
「わーっっ」
「来たぞ、来た!」
  甲高い、少年たちの声だ。
「賑やかですね」
  と、トライオ。
「ああ、あれは、この村一番の悪餓鬼連中ですよ」
  女将は肩を怒らせた。
「ビドー、ビドー、あの悪餓鬼たちを追っ払ってきとくれ」
  奥へ向かって女将ががなり声を上げる。
  どうやら裏庭のほうで子どもたちが何かしているらしい。ビドーの怒鳴り声が響き、続いて、子どもたちが楽しそうに叫びながら蜘蛛の子を散らしたようにてんでばらばらに散って行くのが手に取るように分かった。
「この時期になるとね、よく来るんですよ」
  溜め息をつきつき、迷惑顔で言いながらも女将はどこか嬉しそうだ。
「裏の垣根を御覧になりましたかい?  うちの自慢の桃の木に、大粒の熟れた実がなってるんですよ」
  自慢げに言ってから、女将はぽん、と手を打った。
「お客さん、桃を食べたことはあるかい?  何ならうちの者に採ってこさせるけど、どうするね」
 女将は自慢の桃を食べさせたくてたまらないようだ。彼女はすっかりその気になっていた。いそいそと部屋を横切り奥を覗き込むと、
「すまないけど、誰か、桃を採ってきておくれでないかい」
  誰が桃を採りに行ったかまでは知らないが、トライオとエレの前に、凝った細工を施した陶器の皿に盛られた桃が運ばれたのはそのすぐ後のことだった。
「少し、別のお皿に分けて頂けます?」
  さっと果物に手を伸ばしたトライオと違って、エレはルキアのことを気にして言った。
「ああ、いいよ。あの子にも持ってってあげな。こんな美味しいモン、どこでも手に入るってわけじゃないんだからね」
  素早く果物を選り分けて、女将は小皿に桃の山を作る。
「さあ、たんと食べて下さいよ」
  勧められて、トライオは次の一切れに手を差し伸べていた。



<3>

「おい、行くぞ」
赤毛の子どもが声をかけた。子どもたちのリーダー格なのか、四、五人の少年を後ろに従えている。
「……でも、さっきの男が出てきたらどうするんだよ」
  誰かが言った。
  気の弱そうな、子どもたちのうちでも一番背の低い少年だった。
「大丈夫だって言ってるだろ。そのために見張りを置くんだぜ?」
  赤毛の子どもはそう言うと、古ぼけた屋敷に目を向けた。
  垣根伝いに木に登ることができるなら、いくらでも好きなだけ、桃を取ることができるだろう。今までのように道端から石を投げつけて実を落とす、などといったまどろっこしいことをせずにも済むのだ。
  或いは、少し長めの木切れで枝を叩くということも必要なくなる。
「いいか?  今言った通り、二人は見張りだ。後は木の下で待ってろよ。俺が木の上から桃を落としてやるから」
 親指を立てて、子どもは言った。
  赤い髪はパサパサに乾いており、短く刈られている。年のころは十四、五才ぐらいか。まだ幼い横顔は、酷くきつい線を描いている。よく灼けた赤銅色の肌を惜しげもなく露にした、袖のないシャツ。すらりと伸びた手足は子どもたちのなかでは一番細いのではないだろうかと思われた。腕にはそこそこの筋肉がついているようなのだが。
  屋敷の入口に近いところに見張りを残し、他の者たちは赤毛の子どもにつき従う。
  赤毛の子どもは垣根に足をかけると、するすると桃の木に登った。
  裸足の爪先は、木の幹を器用によじ登っていく。
「上手く受け取れよ」
  声をかけ、子どもは枝から桃をもいだ。
  柔らかな、強く掴むとぐしゃりと潰れてしまいそうなほど弱々しい感じのよく熟れた桃だ。
「あまり無茶苦茶に投げるなよ」
  下から、年かさの少年が言い放つ。
「分かってるって」
  応えて、赤毛の子どもは桃をそっと下へと手放した。年かさの少年がそれを両手で受け止める。
「そーっとな」
  もう一人の少年が口を挟む。
「ああ」
  真剣な表情で、木の上の子どもが頷く。
  二個目を、下にいる少年に渡した時だった。不意に屋敷のなかから声が聞こえてきた。
「こら、悪餓鬼共が!」
  がなり声は、年取った老人のものだった。この屋敷に長いこと仕えている庭師だが、最近は歳のせいか目が弱ってきていた。今も、木の下にいる子どもたちに気付きはしても、イェンの姿には気付いていない。
「うわっ、きたぞ!」
  小さいほうの少年はそう叫ぶなり、逃げ出す用意をしている。
「早く降りろよ、イェン」
  年かさのほうがそう言って、赤毛の子どもを急かす。
「先、逃げろ。後から行くから」
  イェンと呼ばれたリーダー格の子どもは、木の上から声を返した。
「ほら、さっさと逃げろよ。とっ捕まるぞ」
「ああ。じゃ、後でいつもの場所な」
  庭師の声に、子どもたちは散って行く。それぞれが思い思いの方向に。そしてしばらくすると、彼らは前もって打ち合わせておいた集合場所で再び顔を突き合わせるのだ。
  少年たちが逃げるのを尻目に、赤毛の子どもは木の上で傍観者を決め込んでいた。
  枝の上でくつろいだイェンは両腕を組んで、じっと少年たちを見送った。庭師が屋敷の中に入ってしまうまで、この木の上でやり過ごそうと、そう、考えていたのだ。
  太い幹にもたれ、鼻をすん、と鳴らすと、桃の甘い匂いが鼻のなかに入ってくる。
  そういえば朝から何も食べていなかったな──イェンは手を伸ばし、桃の実を取った。
  皮を剥くと透明な汁が手を伝った。
  甘い匂いが、空腹感をさらに煽る。
「うん、うまそうだ」
  くんくんと匂いを嗅いでから、イェンは果実を口へと運んだ。



<4>

  ルキアはそれまで、ずっと部屋に籠もっていた。
  あまり他人と顔を合わせたくはない気分だった。
  だいたい、蒼い眼もそうだが、この、銀色の髪が目立つのだ。ルグォスの島のどこを捜したって、銀髪の人間の数は絶対的に少なかった。もっとも、海の向うの国には銀色の髪を持つ人間の数も多いらしいのだが。
  銀髪でさえなければ、何も言われなかったかもしれない。
  蒼い眼も確かに珍しかったが、ルグォス島にもごくごく稀に、そういう眼を持つ人間がいた。
  だから人々は、ルキアの髪を珍しそうに見た。
  宿の人たちもそうだ。
  口に出しては何も言わなかったが、本当のところ、彼らはルキアの髪をちらちらと眺めていた。珍しい色合いだと思っているのだ。そしてルキアは、その好奇の眼差しが酷く怖かった。
  彼のこの髪と瞳を怖がらないのは、エレとトライオの二人だけだ。
  今のところ。
  いつか、二人の気持ちが変わって……そうして、ルキアのことを畏れるようなときがきたなら、彼はどうしたらいいのだろうか。今の幸せを簡単に打ち崩してしまうほどのものがやってきたなら──それは、もう、すぐにでも彼のところへやってこようとしているかのように思えてならない──、どうすればいいのだ。
  ルキアはそれに立ち向かうだけの力を持っていない。彼自身、そのことを嫌というほど思い知らされていた。
  憂鬱な気分で部屋を出ると、ルキアは、人目につかないようにして裏庭へと出た。
  先刻まで騒がしかった少年たちの声ももう聞こえない。
  誰とも顔を合わすことなく、裏庭で木々に囲まれてのんびりとすることができるだろう。
  ──大丈夫……
  裏庭の土の上に降りると、雑草たちは軽く彼に踏みしだかれた。湿っぽい土が、ひんやりとしていて気持ちいい。
  宿屋の女将が自慢していた…と、トライオが言っていた桃の木は、庭に生えている木々の中でももっとも貫禄のある、年取った木だった。
  ゆっくりとルキアは、桃の木のほうへと歩み寄って行く。
  よく熟れた桃の実が枝のそこかしこから顔を出している。
  ……パシッ。
  不意に頭の上で、小枝の折れる音がした。
  驚いてルキアは顔を上げる。
  小鳥か何かだと思っていたのだ、ルキアは。<白の街>の森に住んでいたころは、木の枝々にたくさんの鳥がとまっているのをよく目にした。しかし……枝の上にいたのは、小鳥ではなかった。
  炎のように乾いた、赤い髪の……少年?
  ルキアは驚きのあまり、声が出なかった。人がいるなんて、思いもしなかったのだ。
「あ……」
  足がすくんでしまって、動こうにも動けない。いつもなら、至近距離に人が近づく前にこちらのほうからそれとなく遠ざかり、それで、なにごともなかったようにしていたのに。
  人が、いる。
  すぐ、目と鼻の先に。
「おい」
  赤毛の子どもが声をかけた。
  ルキアと同じぐらいの年齢か、或いは年上か。とにかく、どちらにしてもルキアよりも年下ということはないだろう。
「誰にも言うなよ」
  言って、子どもはにやりと笑う。
「ほら、これ、やるから」
  熟れた桃をもぎ取ると、子どもはその手をルキアのほうへと差し出した。空いているほうの手で木の幹をしっかりと掴んでいるのだが、身を乗り出しているために今にも地面に落ちてしまいそうな体勢を取っている。
「早く。人が来たらヤバいんだよ、おい」
  さらに身を乗り出して、子どもは言った。
「あ…え、……う、うん」
  そっと、ルキアは手を差し伸べた。
  怖々と果実を手に取ると、さっと手を引っ込める。
  その刹那、褐色の子どもの手が軽くルキアの手に触れた。が、子どもは何も言わずににっ、と笑っただけだった。
「じゃ、行くぜ。いいか、誰にも言うなよ。絶対だぞ」
  それだけを厳粛な表情で告げると、子どもはひらりと垣根の向こう側へと身を翻す。
  木々の向こう側からとん、という軽い音がして、子どもが上手く地面に着地したことを告げる。
「じゃ、な」
  垣根の向こうから声がして、木の葉のあいだに子どもが手を振る様が見え隠れした。
  ルキアは黙って立ち尽くしていた。
  同じ年頃の子どもが、怖れげもなく自分に喋りかけてきたのだ。それにあの子は、彼の眼と髪のことには何一つとして触れなかった。
  子どもの姿が遠ざかってしまうと、ルキアは何となくほっとした気分になった。長い間、他人と一緒にいることは苦痛以外のなにものでもない。
  そして、遠ざかる赤毛の子どももやはり、彼にとっては他人以外のなにものでもないのだ。
  たとえその子がルキアの銀色の髪や蒼い眼のことについて何も言わなかったのだとしても。
「──ルキア?  ルクスティア、どこにいるの?」
  屋敷の奥からエレの声が聞こえてくる。
「エレ…エレ!」
  くるりと向きを変えると、ルキアは、エレのほうへと向かって駆け出していた。
  怖かった。
  恐怖心が不意に、ふつふつと沸き上がってくる。
  本当に、初めてだったのだ。同じぐらいの年頃の子どもから親切にされたりするのは。
  建物の中に入ると、穏やかな笑みを浮かべてエレが迎えてくれた。
「どうしたの、ルキア。何かあったの?  顔が赤いわ」
  心配そうに彼女は、少年の顔を見るなりそう言った。少年に対人恐怖症の気があることを知っているエレは、何かにつけてルキアを庇った。もちろんトライオも、エレと同様にこの少年のことを心配してはいたのだが。
「……何でも…ない。うん。何でもないよ、エレ」
  強張った声でルキアは告げると、くるりと向きを変えた。
「どこ行くの、ルキア」
  少年の背に、怪訝そうなエレの声がかかる。
「厩。ブロウの世話をするって、トライオと約束したから」
  すかさずルキアは応えた。
  ブロウは、彼ら三人が共有する、雌の白馬だ。目下のところ、三人の馬車を引く大きな力となっている。
「そう」
  頷き、エレは小さく溜め息をつく。
  このごろ、ルキアは何を考えているのだろう。彼女には、この少年が何を考えているのかさっぱり分からなくなっていた。昔なら、こんなことはなかったのに。
  最近のルキアはどうかしている。
  いや、自分がどうかしているのだろうか。ルキアのことを分かってあげられないようになってしまった自分のほうが、おかしいのだろうか。
「ブロウに宜しくね」
  わざと明るい声でそう言うと、彼女は無理に微笑んでみせた。ルキアが見ているわけではなかったのだが、そうする以外、方法を思いつかなかった。本当は、酷く戸惑っているのに。それなのにルキアは、そんなことには微塵も気付かなかった様子で裏のほうへと去って行ってしまった。
  いったい、自分はどうすればいいのだろう。あの、奇麗な銀の髪の少年にどうやって接したらいいのだろうか──ルキアの後ろ姿を見送りながら、エレは思った。
  その一方で、ルキアが、エレにどうやって接したらいいのかと不安に思っていることなど、彼女はちらとも気付かなかった。



<5>

  それは、幾日もの永い夜の間にゆっくりと、闇と影の狭間を縫ってやってきた。
  捜していた目当てのものを見付け、歓喜に身を震わせる。
  薄暗い影の中で。
  もう、随分と永いこと捜していたのだ。
  初めは、一つ処で。
  そして今は、追う者となって。
  目当てのものは、すぐ、近くにいる。
  青蒼いサファイアの瞳。きらきらと太陽に輝く銀の髪。
『見付けた…やっと……』
  それは、闇のなかで身を震わせる。
  濃い、闇にも染まるほどの青い影は、小さく呻いて彼を凝視した。
  彼──ルクスティア・ニト・サイノンを。
『今度こそ、逃がさない』
  そうだ。
  逃がしてはならない。
  絶対に。
  影は、くぐもった声で笑った。
  やっと見付けた獲物を、逃すわけにはいかない。ここで、捕らえなければならない。
  それに──
  それに、気にかかることもある。
  微かな、力。
  旧の力にも匹敵するほどの魔力が、この辺り一帯にくすぶっている。何か、いるのか。それとも、ただの気のせいなのか。
  影は、ゆっくりと身を翻す。
  今は、昼。
  影が動くには少々難があるようだ。
  行動を起こすのならば、夜のほうがいい。
  暗い厩の隅に身を沈めると、影は、来たるべき夜に備えて力を蓄えておくことにした。
  ──今度こそ……
『今度こそその力、我がものにしてみせる』
  影は不気味に呟くと、眠りにつく。
  これで誰にも気付かれることなく夜を待つことができる。たとえどれほど力のある魔法使いであろうとも、この状態では彼の力の源を見付けることは不可能だろう。
  影が眠るときはすなわち、この青い影が、ただの影であることを示したからだ。
  ──逃がしはしない。やっと見付けた獲物を、逃がしはしない。
  声は低く、深く響いた。
  風に乗って。
  そして、その声を耳にした者は誰一人としていなかった。



<6>

「ねえ、トライオ」
  ブロウの白い毛並みにブラシをかけながら、ルキアは声をかける。
  トライオは難しい表情を作ると、ブロウの蹄を前足から順に調べていっていた。
「さっき、桃をもらったよ」
「ああ。ここの桃は絶品だな」
  ふと顔を上げて言葉を返すと、トライオは再び馬のひずめの具合を調べ始める。
  ルキアの言葉にはあまり興味がないようだ。
「桃の木のところでね」
  そんな無関心なトライオに構わず、ルキアはなおも言葉を続ける。
「赤い髪の、ちょっと恐そうな子だったよ。……桃を、くれたんだ」
「え?」
  怪訝そうに、トライオは顔を上げた。
「もらったんだ、桃を」
  ルキアは繰り返した。
「──木登りの上手な子だったよ」
  驚いたような表情のトライオに、少年はにっこりと微笑みかけた。どこかおどおどとした、弱々しいものだったが。
「──…驚いた!」
  一言、トライオはそう呟いて、ルキアの顔をしげしげと眺めた。
  人見知りの激しい、物怖じのする少年。銀の髪。青蒼色の、サファイアの双眼。
  この少年が他人のことを話すのは、これが初めてだった。
「驚いたな。本当に」
  何度か頭を軽く振ると、トライオはまだ信じられないといった風に少年を見つめる。彼が知る限りでは、ルキアがこれほどまでにあけっ広に他人のことを話すところは一度も見たことがなかった。また、そういったことがあったと聞いたこともない。
  驚くべきことだ。
「僕も……本当は、驚いてる」
  小さく、ルキアは頷いた。
「恐かったけど、でも、僕に桃をくれたんだ」
  ──それに、僕を怖がらなかった。嫌いだとも言わなかったし。
  嬉しそうに、今度こそ本当に、ルキアはにっこりと微笑んだ。
  他の人間にしてみれば何でもないことだったが、少年にとっては大切なことだった。
「笑ってたよ」
  トライオはと言えば、彼はただ、頷くしかなかった。
  この四年の間、初対面の人間にルキアがこれほどまでの興味を示したことは、一度たりとてなかったのだ。何よりも、興味を持つ以前にこの少年は、他人と顔を合わせるとその場から一目散に逃げ出してしまっていたのだから。
「──その子と友達になれたらいいのにな」
  金髪の青年はそう言うと、ルキアの肩をポンポン、と軽く叩いた。
「うん」



<7>

  夕刻の風に混じって、微かな魔力がイェンの身に纏い付く。
  赤毛の子どもは風のにおいを嗅ぐと、眉間に皺を寄せた。
  つい今朝方までは、こんなことはなかった。風は、いつもの通り、澄んでいた。
  いったいいつのまに、魔力を孕み始めたのだろう……。
  訝しげにイェンは、風のにおいを嗅ぐ。
  間違いない。
  魔力を持つものが、この村のどこかに潜んでいる。必ず、どこかにいるはずだ。
  それも、ごく身近な場所に。
  どこだ──?
  どこに、潜んでいるのだ。
  何が目的なのか。
  イェンは鼻をひくつかせ、空を仰いだ。
  西のほうに沈みかけた太陽を見ることができる。
  風に乗って、魔力の微かな臭いが通りすぎていこうとしていた。
「……村のなかに、いる?」
  ぽつりと、意味のない言葉を呟いてみる。
  いや、意味ならば、ある。
  風が、イェンのすぐ傍らを吹き過ぎていく時に残していったのだ。低く、深い声だった。
  村の中に、魔力の源があるというのだろうか。
  四大精霊のうちの一つである風の精霊の言葉を信じるには、大きな危険が伴う。それは、もしかしたら嘘かもしれない。或いは、単なる噂でしかないのかもしれない。簡単に信じると、後で痛い目を見ることになるかもしれないのだから。
「……風よりも、火のほうが気紛れだけどな」
  大きく溜め息をつくと、イェンは風上を目指して歩き出す。
  風上には、魔力の源があった。それがどんなものなのかはさすがに分からなかったが、ろくなものでないだろうことは分かっていた。魔力を持っていながらそれを無理やりに押し隠そうとするのは、たいていが何か心にやましいものを隠し持っているからだ。経験から、イェンには理解できた。
  しかもこの魔力の持ち主は、かなりよくないことを考えているようだ。ぴりぴりとした風が、心地好い緊張感を与えてくれる。
  皮膚がしだいに敏感になっている。
  久々の感覚だ。
  大物が釣れることを期待して、赤毛の子どもは口許に笑みを浮かべる。大人めいた、酷く無機質な笑みだ。
  こうでなければ張り合いがないと、イェンは思っていた。
  <火の島>から帰ってきて八年の間、イェンはずっと待っていた。自分の魔力を試す機会を。待ち望んでいたと言ってもいい。ずっとずっと、待っていたのだ。自分と対等、或いは、自分よりも強い魔力を持つ者を。たとえそれがどれだけ強い力を持っていようとも、イェンには、それを退けるだけの自信があった。何故なら、イェンを守護する精霊は、四大精霊の一つ、火を司る火炎鬼だったから。
  火炎鬼──つまり、炎──は、清浄の力を持つ。
  炎が意味するものは、相手を抑えつける力。
  そして今一つは……
  イェンは赤く乾いた髪を無造作に掻き上げると、服のなかに隠した短剣に手を伸ばした。<火の島>を出るときに、育て親のシノエ老から授けられたものだ。この剣を媒体に、イェンは守護精霊を呼び出すことができた。村の人間はおろか、イェンの両親ですら知りはしなかったが、確かにこの子どもは御魂使いだった。
  幼くとも、力はある。
  八年ぶりに、自らの守護精霊を呼び出すことができるかもしれないという状況に、イェンは奇妙な興奮を覚えた。
  ──また、暴れられる。
  本当は、守護精霊を呼び出すことは極力、避けなければならないことなのだが。
  しかし、そうせざるを得ない状況に陥れば、否応なく守護精霊を呼び出さなければならなくなる。いや、その前に……イェンの守護精霊ならば、事態がどう転ぼうが、敵の臭いを嗅ぎつけた段階で加勢しに出てくるだろう。今ですらこの守護精霊は、暴れ出したくてずうずしているのだから。
「おい、火炎鬼。八年ぶりの御対面になるかもよ」
  イェンは小さく呟いた。
  目の前には、つい先刻、村の子供たちと一緒にが襲撃した桃の木が見えている。魔力のにおいは、寂れた宿屋の裏手から漂ってきていた。
  納屋のほうか……それとも、厩?
  すん、と鼻を鳴らすと、顔をしかめる。
  すぐ近くに人の気配がする。魔力を持たない、ただの人間の気配がしているのだ。魔力を持つものとの戦いに巻き込まれたら、彼らを助けるだけの余裕はないだろう。おそらく、そのことを考えるよりも先に、敵を倒すことだけに専念してしまうはずだ。自分の悪い癖は、相手を見ないということ。相手を思いやる気持ちに欠けていると、あれほどシノエ老に言われていたというのに。
  だが、性格や癖はそう簡単には直らない。
  ──ま、なるようになるさ。
  ぺろりと口唇を舐めると、イェンは宿の北側、厩のある裏へと回った。
  風は肌に冷たく、鋭かった



<8>

  陽が沈もうとしている。
  ブロウの身繕いをすっかりすませたルキアとトライオは、彼女を厩に繋ごうとした。
  が、この純白の雌馬は、あまり乗り気ではないようだった。厩に入るのを嫌がっているようだ。
「どうしたんだ、ブロウ?」
  苛々とトライオは、馬の首筋を軽く叩く。
  宥めすかして彼女を思い通りに動かすことなど、滅多になかった。いつもブロウは、トライオの思い通りに動いてくれた。他の馬たちが脅えて前進するのを拒むような場所へも、トライオの声がかかればそれだけでもう、安心しきったように先へと進んだものだ。それなのに何故、今日に限って言うことを聞かないのだろう。
「ブロウ?」
  鼻面に手を置いて、ルキアが優しく促す。
「ほら、寒くなってくるから。中に入ろうね」
  まだ渋っているブロウの手綱を引いて、少年は厩へと足を踏み入れた。厩はかなり暗かった。堆肥の臭いがつん、と鼻をつく。
「いい子だからおとなしく……」
  ルキアがそう言いかけたとき、何かが、彼の目の端で蠢いた。
「どうどう」
  神経質に蹄を鳴らす白馬の首を撫でさすり、トライオは低い声でブロウに囁きかける。彼のほうは、厩の隅で黒い影が揺らめいたことには気付いていないようだ。
「トライオ……ねえ、何か、動かなかった?」
  蒼い目の隅で辺りを眺めながら、ルキアは訊いた。気のせいであるはずがない。確かに見たのだ、暗がりので、何かが動くのを。
「鼠だろう」
  きつい堆肥のにおいに顔をしかめながら、トライオは応える。彼は、一刻も早く、この厩から出たかった。何年ものあいだ騎士だったとはいえ……もちろん今でも騎士だが、彼は、厩のにおいには未だに慣れることができないでいる。鼻がひん曲がってしまいそうなほどに鋭いにおい。窒息死しそうな思いをしたことは、これが初めてではない。
「鼠はあんなに大きくないよ」
  ルキアは食い下がった。
「だって、猫か、小犬ぐらいの大きさだったもの」
  両の拳をしっかと握りしめて少年が強く言うと、トライオは軽く肩を竦めて返した。
「じゃ、猫か小犬なんだろう」
  投げやりな口調に、少年は苛々とこの、分からず屋の青年を見上げる。
  青蒼色の瞳が怒っている。
「トライオ!  ちゃんと、僕の話、聞いてる?」
「聞いているよ」
  言って、トライオは少年の頭を優しく叩いた。
「暗くなってきたから、光線の加減で影が動いたように見えたんだろう。それよりもほら、もうそろそろ夕食時だ。早く食堂に行かないとエレが心配するだろう?」
「う……ん」
  不服そうに下を向くと、少年は、どうして自分の言葉を聞き入れてくれないのかと、憤りを感じた。トライオの言う猫か小犬は、あんなふうに藁の上を音もなく走ることができるのだろうか。
  もしも、あれが猫か小犬だったとしてのことだが。
「さあ、戻ろう」
  トライオは厩から出ていこうとしている。すでに頭のなかは、食事のことで一杯になっているはずだ。
  観念したのか、ルキアは小さく厩の隅に目を馳せ、それから、訝しげな眼差しのまま厩を出ようとする。まるでそれは、トライオの言う通り、自分が見たのは大きめの鼠か、或いは猫か小犬だったのだと納得しようとしているかのようだった。
「待ってよ…──」
  言いかけて、ルキアは背に視線を感じた。
  気のせいなどではない。
  確かに、誰かがルキアを見つめている。酷く懐かしい感覚がした。以前にもこんなふうに、見られたことがある。
「だ……れ?」
  立ち止まり、銀髪の少年は厩の奥へと声をかけた。
「どうした、ルキア」
  トライオが不思議そうに少年を見遣る。
「誰か……いるよ」
  暗がりを凝視したまま、ルキアは呟いた。
「誰か、って……」
「わからないよ、そんなこと。でも、いるんだ」
  そう言いながら、ルキアは自分の声が泣き声になりかかっているのに気が付いた。
「ほら──あそこに!」
  ルキアは、大声で叫んでいた。
  全身が恐怖で竦み上がってしまいそうだった。
  そこにいたのは、少年がよく見知ったもの──青い、闇の色をした形を持たないものだった。
『見付けた……』
  それは、低く、耳障りな声で呻いた。
  初めは霧のように不確かな形をしていたが、ゆっくりとそれは、一つのものを形作ってゆく。ルキアやトライオに似た、人間という生き物の形を、それは象った。次第に青い色が薄れる。と、同時に、人の形をしたそれは不器用によろめきながらルキアのほうへと寄って行った。
『…見付けたぞ、サイノン』
「トライオ!」
  助けを求めてルキアは後ろを振り返る。
  その瞬間、パタン、と大きな音がして厩の扉が勢いよく閉まった。影はゆらゆらと揺らぎながら少年のほうへと歩み寄ってくる。今はもう、すっかり人間の貌へと変化を遂げて。
『逃がさない。待っていたのだ、この時を。お前の持つ、旧の力を手に入れる時を』
  影……ノルジットが言った。
「旧の力なんて、知らない。僕は、そんなもの持ってなんかいない!」
  そう叫んで、ルキアは影を睨付けた。大きく見開いた青蒼色の眼は、涙で潤んでいる。
「ルキア?  どうしたんだ、ルキア!」
  トライオが表から扉を叩いた。
「トライオ、助けて」
  言いながらも少年は、トライオが自分を助けてはくれないだろうことを何とはなしに予感していた。
  閉ざされているのだ、自分がいるこの空間は。
  おそらくノルジットは、自分が持つ魔力を使ってこの場所には誰も立ち入ることができないようにしてしまっているはずだ。亡くなったお婆様が言っていた、「結界」とかいうものを作り出しているのではないだろうか。
『無駄だよ、サイノン。誰もここへは入り込めないはずだからな』
  ノルジットは手を差し延べて、不気味な笑みを浮かべる。
『さあ、今日こそ渡してもらおうか、旧の力を』
  後はなかった。
  ルキアはちら、と後方へ目を馳せ、それから、目の前のノルジットを睨付ける。本当は、怖さのあまり泣き出してしまいそうだった。何故、この男は、旧の力などというわけの分からないものに執着するのだろうか。少年には、ノルジットの言うところの旧の力とやらがどういったものなのか、さっぱり分からなかった。
「知らないったら、知らない!」
  後退ると、肩が厩の扉にとん、と触れる。
  どこへも逃げることはできない。ノルジットは確実に少年を追い、最後には捕まえてしまうだろう。何しろ、ルキアが無事に逃げきれる確率よりも、ノルジットがルキアを捕らえる確率のほうがはるかに高いのだから。
  震える足を必死にこらえ、少年は扉のところに立ち尽くしていた。



<9>

「どうしたんだ?」
  トライオは厩の扉をどんどんと力任せに叩いたが、びくともしない。
  彼ほどの男が力任せに扉を殴れば、それだけでもう、厩は壊れてしまいそうな外観をしている。それなのに、扉はびくともしない。
  まるで、石か鉄で作られているかのようだ。
「ルキア?」
  木の扉一枚を間にしているだけなのに、内側からは物音一つとして聞こえてこない。本当にルキアが中にいるのかどうかすら、疑わしくなってくるほどだ。
「どうしたんだ、ルキア?」
  声を張り上げ、トライオは扉を叩く。
  中からは何も聞こえてこない。
「──…それじゃ無理だぜ、オッサン」
  不意に、背後から声がかかった。まだ子ども子どもした甲高い声だったが、ルキアよりははるかにしっかりとした感じの子が、そこには立っていた。赤いパサパサの髪と、つり上がった瞳。褐色の肌が、赤に映える。
  ルキアが桃を貰ったと言っていたれいの子どもは、この子のことだったのだろうか──ぼんやりと先刻交わした会話を思い出しながら、トライオは子どもを見ていた。
「何ボーッとしてんだよ。中に入るぞ」
  子どもはトライオを睨み上げると、横柄な口調でそう言った。
「それは無理なんじゃないか?  私もさっきから扉を叩いているんだが、なかなかこれが頑強でね……」
「当然だろ?  魔法の力が働いてんだからな。あんたのやりかたじゃ、絶対に開きっこねーよ」
  言うなり、子どもは腰につるした小さなナイフを手に取った。
「どうするんだい」
  妙なことになったものだと内心ではこの子どもを訝しんではいるものの、完全にこの子を否定するわけにもいかず、トライオは居心地悪そうに子どもの手元を覗き込んだ。
「破んだよ、この扉を」
「そんなもので?」
「……声かけんなって」
  苛々と子どもが返す。心なしか、だんだんと言葉尻がぶっきらぼうになってきている。
「集中力が要んだよ、これは。精神統一が必要なわけ」
  真剣な眼差しで言い捨て、赤毛の子どもは扉を睨付けた。
「──どきやがれ、馬鹿野郎!」   叫ぶと同時に、子どもの手からナイフが放たれた。勢いよく扉に突き刺さったその刹那、内側から凄まじい悲鳴が響いてきた。
「何だ、この声……」
「開いたぞ」
  短い言葉を投げると、子どもは扉を押す。トライオがあれほどてこずっていた扉が、すんなりと開いた。
『貴様……』
  厩の奥で、苦しげに青い影が揺らめくのがトライオにも見えた。
  あれは以前、ルキアに取り憑こうとしていた…──そう、確か、ノルジットとか言った……
「は……力試しにもならねーじゃんか」
  苦笑して子どもは影を見据える。
「てめぇなんか、俺が直に始末してやるよ」
  腰を落ち着けると素手のままで、赤毛の子どもは影と相対した。
『何者だ、お前は。旧の力を持つこのノルジットが作り上げた結界を易々と破るとは』
  影が再び揺らぐ。
  怒っているのか、影の動きは不安定だ。
「残念だな。俺も、そのお零れとは親しいんでね」
  にやりと笑った子どもの顔は、酷く大人びていた。
『……俺も?』
  影が問う。
『どういうことだ、それは』
「言葉通りだよ」
  言葉を投げつけた瞬間、子どもは素早く影の懐に飛び込んでいく。影が後退するよりも早く、腕を振り上げ…──振り上げた掌から、赤い炎が剣となって影を貫いた。
  ノルジットは、耳障りな長い長い悲鳴を上げ続けた。
「俺を敵に回そうと思うのなら、もちっと修行してから出直すんだな」
  ふふん、と鼻で笑うと、赤毛の子どもは、ノルジットに突き刺さったままの剣を上へと引く。さらに激しい声が上がり、それから、不意にそれは止んだ。
  影は、厩から完全に姿を消していた。
「ちっ…」
  舌打ちをして、子どもは腕を下ろした。もう、あの不思議な炎はどこにも見えない。
「何だったんだ、今のは」
  トライオが尋ねると、子どもは不機嫌そうに首を振った。
「逃げやがった」
  固く握りしめた拳を、空いているほうの掌でがしっ、と受け止め、子どもは苛々と毒づく。
「畜生!  逃がしちまったんだよ、あの、危ねーやつを」
  呟きながら赤毛の子どもは、鋭い眼差しでトライオを睨み付けた。まるで今にも、彼にすべての非があると言って食ってかかってきそうな様子だ。
「……ったく、このっ、…──」
  言葉を無理やり飲み込むと、子どもは半開きの状態の扉を蹴飛ばした。
  すぐかたわらで、ノルジットと、突然現れた赤毛の子どもに対する恐れとで足が言うことを聞かなくなり、地べたに座り込んでいたルキアが、扉を蹴飛ばす鈍い音に驚いてびくりと身体を震わした。
「さっさと立てよ」
  ぶっきらぼうな口調で言うと、赤毛の子どもはルキアに手を差し延べる。
「ほら、さっとする」
  赤毛の子どもが畳みかけるように言葉を紡ぐと、ルキアのほうは反射的に手を掴み、立ち上がろうとする。が、それより早く、赤毛の子どもの腕がルキアを引っ張り、立たせていた。
「あ…ありがとう」
  俯き加減に目を伏せて、ルキアが言う。
  小さな声だった。
  ルキア自身、どうしてこんなに小さな声しか出せないのだろうかと嫌になるほどに。
「っとに、しっかりしろよ、おい。せっかく魔力持ってんのに、これじゃ、宝の持ち腐れになっちまうぞ」
  そう言うと子どもは、少年の銀色の髪に手を延ばし、ぐしゃぐしゃと掻き交ぜた。どこか、優しい仕種で。
「──魔力…って?」
  小首を傾げて、ルキアは訝しげに問う。
  この子も、ノルジットと同じようなことを言う。エレと違って自分には魔力などないのに、彼らは、ルキアが魔力を持っているとほのめかす。嫌というほどしつこく。
「ああぁ?  おい、オッサン!  てめっ、こんガキに何も教えてねーのかよ、ええ?」
  赤毛が叫ぶ。
  と、同時にトライオも叫び返していた。
「誰がオッサンだ、誰が!」
  彼にしてはいささか大人げのない態度だったかもしれない。しかしトライオは、そんなことはおかまいなしにこの赤毛の子どもと睨み合いを続けている。或いは、自分がどれほど子供染みたことをしているのか、気付いていないのかもしれないが。
「あんたのことだよっ、オッサン」
「…私には、シュフィラス・アザ・トライオという名があるのだが」
  渋面のトライオは、上ずった声でそう言った。
「シュフィラス・アザ・トライオ?」
  子どもが繰り返す。
「そう。トライオだ」
  頷き、トライオは子どもを見つめ返した。鋭い眼差し。子ども相手だということをすっかり頭の中から忘れ去っているようだ。
「俺は、イェン・リ・ラサイだ」
  子どもはそう告げると、改めてトライオの姿をまじまじと眺めた。
「あんたのことは知ってるよ。<光の街>を追われた騎士だろう」



<10>


  宿屋の一室へとイェンは連れて行かれた。
  ルキアのことに関しては、トライオはまったくの素人。何も知らないどころか、何も分からなかった。魔法に関しても同様だ。一般的な、人々が知っていることぐらいなら理解できたが、それ以上の詳しいことになってくると、さっぱり分からない状態だった。
  まず、トライオがエレのへやを訪ねた。
「エレ、少しお邪魔しても構いませんか」
  ノックをすると同時に、低いテナーが響く。
  エレの返事はごく簡潔なものだった。
「ええ、どうぞ」
  ドアを開け、トライオは部屋の様子を覗き見る。質素な宿屋だったが、テーブルの上には裏庭で摘まれた朝咲きの花たちが飾られていた。
「どうかなさいましたの」
  本から顔を上げた彼女はそう言って、それから、トライオのすぐ後ろにルキアが立ち尽くしていることに気付く。訝しげに少年を流し見るとエレは、次にトライオに視線を馳せた。
「ルキアのことで、貴女にお話ししたいことがあるのですが……」
  トライオはゆっくりと言う。
「ルキアのことで?」
  美しいラヴェンダーの瞳が青年をじっと見つめた。彼はいったい何を言おうとしているのだろうか、とでも言いたげな眼差しだ。
「ええ、そうです。しかし、その前に会って頂きたい人物がいるのですよ、ここに一人」
  と、トライオは後方へと目線を漂わせる。
「ほら、入ってきたらどうなんだ」
  促されるようにしてルキアが部屋に入ってくる。その背を押して、赤毛の、エレの見知らぬ子どもも一緒に部屋の中へと足を踏み入れた。
「あの……」
「俺は、イェン・リ・ラサイ。イェン。あんたたちのお仲間だよ」
  あんたたち。
  そう言ってイェンは、エレに手を差し延べる。
  警戒心のない柔らかな態度だった。
「仲間…?」
  エレが不思議そうに返す。
「そう、仲間だ。御魂使い、っての知ってるだろ?  俺はその、火炎鬼の使い手なんだ」
  空いているほうの手を腰に当てた横柄な態度は、まるで子どもであることを感じさせない。
「御魂使い……あなた、が?」
  ぽつりと、力無くエレが呟く。
「そ。ガキだけど、ね」
  イェンは笑みを浮かべ、彼女を促した。エレの手がゆっくりと、イェンのほうへと差し出される。
「わたしはエレ。エレ・アウル・ヴィクトーラよ」
  ためらいがちに、エレは言った。
「よろしく、エレ」
  軽くエレの手に触れると、イェンはにっ、と笑う。悪戯小僧丸出しのままの表情で。
「──と、ゆーことで、さっさと本題に入ってくれよな」
  と、イェン。
  ふいに赤い双眼に、意地の悪そうな笑みが浮かんだ。
  話を振られたトライオは思い出したようにふっと我に返ると、エレのほうへと向き直った。
「ルキアのことなのですが……イェンは、その、……ルキアのことを、魔法使いだと思っているようなのです。私がいくら言っても聞きもしない。貴女のほうからはっきりと言ってやってはもらえませんか?  ルキアが、魔法使いでもなければ貴女のような魔力も持ってはいないのだということを」
「ルキアに魔力があると…──あなたは、そう言うのね?」
  赤毛の子どもに目を馳せて、エレは問う。
  優しい響きの声は、どこか嬉しそうでもある。
「魔力は持っている。もともと、こいつには魔法使いになるだけの資質があるんだ。それを無理に抑え込んでいる、っのは、ちょっともったいないんじゃないのか?  あんた、この子の保護者なんだろう。え?  だったら、この子にどんな力があるのか見極めてやるのもあんたの役割だ。そうじゃないか。だいたい、あんた古代魔法使いなんだろ?  占札を操れるんじゃないか。どうしてこの子に魔力があることを知らないでいられる?」
  腕組みをして、イェンは、諭すようにエレを見つめた。ルキアに魔力があることを知らなかったエレを責めているのではない。口調はしごく穏やかで、静かなものだった。
「わたし……」
「ま、知らなくて当然だろな」
  くすっ、と鼻で小さく笑うと、この赤毛の子どもは、エレを真直ぐに見据える。
「こいつの力、未分化だよ」
  エレに向かって、イェンは軽く片目を閉じてみせた。
  ルキアに魔力があることを知らなかったのは、エレの非ではない。ルキアが力を隠していたというわけでもない。ルキア自身、魔力を持っているということを知らなかったのだ。未分化の力は、強い魔力を持つ魔法使いにさえ、感知されないことがある。おそらく、力が不安定だからだろう。魔法使いたちもそこのところはいまだに明らかな答えを見出してはいなかったが、何にしろ、未分化の魔力を持つ人間は感知されにくかった。
  そして、一人、わけの分からぬルキアは部屋のなかの三人の顔をきょとんと眺め続けていたのだった。



<11>

  旅立ちの朝がやってきた。
  ルキアたちは再び、あてのない旅へと戻らなければならなかった。
  ノルジットを倒したのならばともかく、イェンは……あの赤毛の御魂使いは、はっきりと、ノルジットを取り逃がしたと言ったのだ。しかも、三人の目の前で。
  ノルジットがルキアを狙う原因となっている旧の力は、しだいに力を増してきているようだった。イェンに言わせると、ルキアの魔力は微量ながらも少しずつ成長し始めているとのことだった。となると、ノルジットがルキアを狙ってこないはずがない。これまでだって、しつこすぎるほどにノルジットは銀髪の少年の前に現れている。今までのところ運よく襲撃をかわせてはいるが、いつかルキアの旧の力が、ノルジットに吸収されないとも限らない。
  蒼い石を、封じ込める前に。
「行こうか、ルキア」
  御者台に座ったトライオが声をかける。
「うん……」
  寂しそうに、馬車のかたわらに立ち尽くす少年は頷いた。
  幌の中ではエレが、ルキアが乗り込んでくるのを待っている。
「どうかしたの、ルキア」
  怪訝そうに問いかけるエレを見て、ルキアは小さく首を振った。
「ううん、何でもないよ」
  言って、彼は馬車に乗り込む。が、本当のところ、ルキアはこの地を離れたくはなかった。
  ここには……<闇の街>には、イェンがいるから。
  生まれて初めて、同い年のころの子が彼に話しかけてくれたのだ。好奇心や同情なんかではなく、もちろん、嫌がらせなどでもなく、イェンは、この少年に自然に接してきた初めての人間だった。そのイェンと別れることが、ルキアには酷く悲しく思えたのだ。
  もう二度と、イェンのような人間には出会えないだろう。
  これが最初で最後の友人になれるチャンスだったのに。それを逃してしまえば、もう、二度とは巡ってこない……
  ルキアが幌の中へ潜り込むと同時に、馬車はゆっくりと動き始めた。
「次は、どこへ行くの?」
  あの赤毛の子どもの、少し気の強そうな眼差しや、横柄な口調を思い出しながら、ルキアはトライオに尋ねかけた。まるで、思い出したものたちを頭のなかから振り払うかのように。そう。忘れたいことは一刻も早く記憶から追い出してしまうに限る。
「そうだな……」
  呟き、トライオは砂埃の道を見据える。
  道は真直ぐに北へと向かって伸びている。あと何日かは<闇の街>の小さな村々が続くだろうが、それが切れたら<湖の街(ナダス)>に入る。たくさんの湖と大きな森と。かつて、精霊たちが一時の休息に訪れた土地。静かで、穏やかな土地だとか。
  三人が三人とも、黙りがちだった。
  そうして……村の出口まできた時、不意に、馬車の前に人影が飛び出してきた。
  いや、道端の木の上から飛び降りてきたといったほうがいいだろう。
  古びた小さな短剣を腰に下げた、赤毛の御魂使い。褐色の肌が、陽の光に照らされた。細身だが、程よく筋肉のついた身体が馬車の前に立ちはだかっている様が見える。
  トライオは、何も言わずに馬車を止めた。
「どうしたの、トライオ」
  エレが訝しげに尋ねかけた。
「ああ、それが…──」
  言いかけたトライオを遮って、ルキアは馬車を飛び出していた。
「……イェン!」
  嬉しそうに、満面に笑みを浮かべて少年は走り寄って行く。まるで、小犬のようだ。
「イェン、どうしてこんなとこに?」
  駆け寄り、赤毛の御魂使いを心持ち見上げて、ルキアは尋ねた。
「旅に出ようかと思ってな」
  イェンは言った。
  にんまりと笑みを浮かべ、イェンはトライオのほうへとちらと視線を投げかける。
「いいだろ、一人ぐらい増えたって。なあ?」
  最後の言葉はルキアに向かってだった。
「一緒に、きてくれるの」
  怖々と、ルキアは言葉を発する。あまり大きな声で言ってしまうと、現実ではなくなってしまいそうに思えたのだ。
「お前みたいな危なっかしいのを放っておくわけにもいかねーだろ」
  少し怒ったように、イェン。
「本当に、一緒にきてくれるの?」
「くどいぞ。…お前が魔力を使いこなせるようになるまでは一緒にいてやる、って言ってんだから、信じろって」
  そう言うとこの赤毛の子どもは、ルキアの銀の髪をくしゃくしゃと撫でつけてやる。
「うん」
  嬉しそうなルキアは、じっと、されるままにイェンを見つめていた。完全に信頼している、真直ぐな眼差しで。
  ──当分の間、この俺が、守護精霊になってやるよ。
  無邪気そうなルキアを見下ろし、イェンは心の中で思った。
  それに、ノルジットとやらにも借りを返さなければならない。戦って負けるなど、イェンには信じられないことだった。いや、負けることは、時に、ある。だが、あんなふうに逃げられたことは一度だって……
  この借りを返すためにも、ルキアと行動を共にする必要があった。
  何しろノルジットは、ルキアの持つ旧の力を狙っているのだから。
「まっかせなさい」
  親指を立てて、イェンは豪語する。
  ルキアはそれを、心から嬉しそうな、晴れやかな笑みで見つめていたのだった。



  こうして旅は、再び始まった。
  一行は<湖の街>へと向けて、ゆっくりと街道を進み始めた。
  行く手には湖と木々の生い茂る森。そして、旧の力を狙うノルジットの影が彼らの前にちらつく。
  少年の試練も同様に、彼らの前にどっしりと横たわっていた。



END
(H4.12.1)
(H24.1.14改稿)


Novel