見えない棘 3

  良平は、そのまま車を自分のアパートへと走らせた。
  翔が自分の部屋を飛び出していくのを見送った時、良平は、どうせいつものように自分にはわからない翔なりの理論で拗ねて逃げ帰ったのだろうと、あまり事態を深くは考えてはいなかった。喧嘩をするとすぐに自分の部屋へ逃げ帰る翔の行動はいつものお決まりのパターンで、良平にとっては珍しくもなんともなかったのだ。もっとも、部屋を飛び出した翔がふらふらしているところを、有科に補導されかかるだろうとは思ってもいなかったのは完全に良平の手落ちであるが。
  有科から連絡を受けた良平はすぐさま、塩崎家へと電話をかけた。疲れていたのか翔が眠り込んでしまったため、今夜は自分の部屋に泊めること、明日の朝、登校前に一度家へ送っていくこと、そういったことを頭の中で素早くでっちあげ、翔の母親に告げると、彼女はすぐに快諾してくれた。幼馴染みで年上のしっかり者と定評のある良平の言葉だからと、彼女は微塵も疑うことなく「それじゃあ、よろしくお願いね、良平君」と返してきたのだ。
  やりにくいなと良平は口の中で呟く。
  まるで無言のプレッシャーをかけられているような感じがする。
  今夜、良平が清廉潔白を守り通すためにはかなりの努力を要するだろう。
  助手席に座る翔にちらりと目を馳せると、彼はしごく真面目な表情でまっすぐに前を見ていた。真一文字に引き結んだ唇は、翔の意志の強さを表している。負けず嫌いで気の強い翔のことを、昔から良平は好ましく思っていた。小柄なくせに、闘争心をむき出しにするところもいい。お互いおなじ一人っ子だが、翔はアウトドア派のやんちゃ坊主、一方の良平は読書好きのインドア派と間逆の性格をしているのは興味深いところだ。しかしだからこそ、二人の関係がうまくいっているのかもしれない。男同士で付き合うだなんて非常識にもほどがあると悩んだ時期もあった良平だが、今のところ二人の関係はなかなかうまくいっているのではないかと思っている。
「寝るなら部屋についてからにしろよ」
  声をかけると、ムッとしたのか、口元を尖らせて翔は返した。
「眠らねーよっ」
  良平に対する疑いは晴れたものの、翔の態度はいまだにどこかしらぎこちない。
  樹里という少女のことは、最初から良平には身に覚えがなかった。だから誰に何を言われようと、良平は何とも思っていなかった。
  だいたい、この四月から高校教師として勤務しだしたばかりの良平が、いつどの時点で、会ったこともない女子高生に手を出すことができるというのだ。学生時代のことを言われるのならともかく、就職してからの良平は、翔一筋だ。付き合っていた女の子たちとは既に縁も切れており、連絡を取り合うこともなくなっている。そもそも未成年に手を出すなんて……と、そこまで考えて良平は、ハッと我に返った。自分のすぐ隣のシートで、じっとフロントガラスに映る景色を見つめる恋人は、まさに高校生、未成年ではないか。
  うぅ、と小さく歯噛みしながら良平は、ハンドルを切る。
  踏切を越えて商店街を横目にしばらく車を走らせると、ヘッドライトの向こうに良平のアパートがぼんやりと見えてきた。築五年になるアパートはこざっぱりとしたシンプルな外観で、良平は気に入っている。アパートの入り口に近いところに一度車を停めると、翔を先に降ろした。
「部屋に上がってろ」
  ややぶっきらぼうに声をかけると、良平はアパートの裏手にある駐車場へと車を向ける。その間に、苛々とした気持ちを落ち着かせようと何度も深呼吸をする。煙草は駄目だ。煙草は。
  車から降りると良平ははあぁ、と息を吐き出して、すぅー、と深く息を吸う。肩に力を入れ、力を抜き、また肩に力を入れ、力を抜く。何度かそんなことを繰り返して、最後にもう一度、深呼吸をする。
  平常心だ、平常心。
  苛々したら負けだと自分に言い聞かせると、良平はアパートの自分の部屋へとゆっくり歩き出す。
  殊更時間をかけて階段を上がりきると、ドアのノブに手をかける。
  ドアの向こうはすぐキッチンになっている。壁に沿うようにして設置したハイタイプのテーブルの前、ダークグレーの丸みを帯びた柔らかな曲線のバーチェアに腰を下ろした翔は、しょぼくれて背中を丸めていた。少し可哀想な気がしないでもなかったが、ここで甘い顔をするとつけ上がることは、これまでの経験から学習済みだ。しょぼくれている姿には素知らぬ振りを通して、部屋に上がる。自分の部屋なのだから、遠慮する必要などどこにもない。そのままキッチンの隅にある冷蔵庫を開け、中から缶ビールを取り出した。
  翔のすぐ隣、同タイプの黒いバーチェアにドスン、と腰を下ろした良平はビール缶のプルトップを開ける。プシュ、と小気味のよい音がして、すぐに泡が沸き立ってくる。
  良平がうまそうにビールを飲むのを、翔はムッとした表情でちらちらと見つめていた。
  どういうことだと聞きたそうにしているが、それは良平にも言えることだった。いったいどういうことなのだと、翔を問い詰めたい気持ちでいっぱいなのだ。
  自分に何も訊かずにあれこれ悩んだ挙げ句、勝手に部屋を飛び出して、補導されるだなんて。しかも翔を補導したのは有科だ。同僚の有科は愛想はいいがどこかしら抜け目のない人物のように思えて、実は良平はあまり彼とは親しくはない。それだから余計に、翔が有科に補導されたことが腹立たしくてならないのだ。
  こんなことならあの時、翔を引き留めておけばよかった。それが無理ならすぐにでも後を追いかけていればよかったと、さっきから何度も良平はそんなことを考えている。
  そもそも、こんなことになってしまった原因を作ったのは、自分でもある。もっと早くに誤解を解いておけばよかったのに、何を思ったか良平は、今回の一件に関して翔にはほとんど何も話していなかったのだ。自分に心当たりがなかったから、事を実際よりも軽く見ていた部分もあるかもしれない。放っておいた良平にも非はある。もっとも、翔のほうでも良平に尋ねてくることはなかったから、おあいこなのかもしれないが。
「……りょーちゃん」
  ポソリと、蚊の鳴くような小さな小さな声で、翔が良平の名を呼ぶ。
  聞こえている。だけど良平は、わざと聞こえないふりを通して知らん顔を続けている。
「りょーちゃんってば!」
  拗ねたような翔の口調が、耳に心地よく響く。
  口元をアヒルのように突き出して、頬を心持ち膨らせて。上目遣いにちらちらと良平を見ている。兄弟のいない良平は、翔のこの顔に昔から弱かった。こんな表情をして拗ねられると、いったいどうしたらいいのかわからなくてまごついてしまうことが昔はよくあった。今でこそまごつくことはなくなったとは言え、やはりこの表情に自分は弱い。
  こういう顔をして泣きついてこられると、胸がぎゅっと締め付けられるような感じがして、どうにも守ってやりたいような、構ってやりたいような気持ちになってしまうのだ。
  そっぽを向いていた良平だが、拗ねた翔の口元があまりにも子どもっぽくて可愛らしいものだから、適当なところで翔のほうを向いてやる。
  それから口元に淡い笑みを浮かべたまま良平は、翔の唇をさっと奪い取ったのだった。



  さっきの埋め合わせとばかりに良平は、翔の唇を貪った。
  我が儘で、短気で、だけどどこか抜けている翔が可愛くてならない。弟というよりも、たまにお馬鹿な飼い犬のような気がしないでもない。とは言え、本当はそのどちらでもない。大切な年下の恋人なのだから、できるだけ甘やかして、大切にしたいとも思っている。
  腕の中に大事に抱え込んで、翔を誰にも見せないでいられたらどんなにいいだろうと思うこともあった。表にも出さず、誰とも会話をさせず、自分一人だけのものにしてしまいたい。そんな衝動に駆られることもあった。
  しかしそうしてしまうと、翔本来の良さがなくなってしまう。翔は表に出て、たくさんの友人たちに混ざって力一杯飛んだり跳ねたり走ったりしている姿がいちばん生き生きとしている。良平が好きになった翔は、そんな元気のいい年下の男の子なのだ。腕の中に閉じこめてしまいたいけれど、閉じこめられないジレンマ。そんなものを感じてもいる。
  クチュッ、と音を立てて翔の舌を吸い上げると、腕の中で自分よりも華奢な体がフルリと震えるのが感じられた。
「く……っ、ふ……」
  しがみついてくる手も、唇も、何もかもが愛しく見える。
「翔、ベッドに行こう」
  唇を離した良平が促すように耳元で囁くと、翔はコクン、と従順に頷く。
  キスだけでくたりとなってしまった翔の体を腕に抱えるようにして良平は、奥の寝室へと移動する。時折、翔の足がもつれてよろめくとは良平にしがみついてくる。頬にあたる翔の髪がくすぐったい。
「りょー…ちゃ……」
  見上げてくる黒目がちの翔の瞳は子どもっぽくあどけないのに、目尻のあたりはどこかしら色めいている。幼いくせに、これでなかなかエロい表情をする時があるのだ、翔は。
「ほら、ベッドについたぞ」
  そう言って翔の体をそっとベッドの上に仰向けに寝かせてやると、今度は肩口のあたりにしがみついてくる。
「なんだよ、今日は甘えただな」
  からかうように翔の髪に指を差し込み、がしがしと掻き乱してやる。
「だって……」
  ぐずぐずと言いながらも翔は、良平にしっかとしがみつき、胸の中に額を押し付けようとする。
  甘えたいのか、それともばつが悪くて誤魔化しているのか、いったいどちらだろうか。
「りょーちゃんは……」
  一度言いかけたものの翔は、口ごもってしまう。どう告げればいいのか、思案しているように見えないでもない。
  そのまま黙りこんでしまった翔の頭をコツ、と小突いた良平は、ぎゅうぎゅうと自分よりも小さな体を抱きしめてやる。
「ごめんな、翔」
  言いながら良平は、何度も翔の髪や額や頬にキスを落とす。一方でまだ幼さの残る顎のラインを指でなぞり、シャツをたくし上げ、肉付きの薄い脇腹に手を這わせる。
「りょ、う…ちゃ、ん……」
  頭に、翔がしがみついてくる。途端に良平の視界は塞がる。翔の顎だか鼻が、良平の耳のあたりにガン、とぶつかった。ぶつかった衝撃についで、耳の端をかぷりとかじられる。犬歯を立てて、きりきりと食いちぎらんばかりに噛み締めてくるのを良平は、鬱陶しそうに片手で押し退け、ベッドに押さえ込んでしまう。
  自分の体の下に敷き込んだ翔は、今にも泣き出しそうな顔で良平を見上げていた。
「りょーちゃ、ごめっ……」
  言っている端から翔の瞳に涙が潤みだし、ポロリ、と零れ落ちる。
  泣き虫なところも昔からかわらない。
  気が強すぎるからだろうか、感情をセーブできなくなると、こうやって泣きじゃくる。泣いて、ぐずって、相手を意のままに動かそうとする。狡いなと思いながらも、ついつい甘やかしてしまうのが良平だ。
  よしよしと頭を撫でてやると、いっそう強い力で縋り付いてくる翔のこめかみに、良平はチュ、と音を立てて口づけた。
「ああ、もうっ。泣くな、翔」
  声をかけ、ポン、ポン、と背中をやんわりと叩く。てのひら越しに感じる翔の背中は、微かに震えている。
「……だって」
  だって、だって、とぐずぐずと尚も翔は呟き続ける。
「はいはい」
  背中を撫でさすってやりながら良平は、いつまでもこの年下の恋人を抱きしめていたのだった。



  ようやく寝付く頃かと思ったら、今度は腹の虫がうるさくし始めたようだ。
  いつまでもべそをかき続ける翔の背中を撫でていると、そのうち、翔の腹の虫が騒ぎ出した。ぐぅ〜、と鳴ったかと思うと、腕の中で翔がもぞもぞとする。
「りょーちゃん、俺、腹減った……」
  腹減って死にそうとこられたら、良平にはもうどうにもすることができない。
「……腹減った、って……お前、さっき有科先生に何か食べさせてもらってたんじゃないのか?」
  少しくらい非難がましい口調になっても、そこは許してほしいと良平は思う。良平だって心配していたのだ、翔のことを。ただ、自分の気持ちを表に出すのがあまり得意ではないというだけだ。
「ん……食べさせてもらったけど、まだ足りない」
  はあぁ、と盛大な溜息をついた良平は、確か冷凍庫に買い置きのピザがあったなと思う。レンジでチンするだけのピザだが、ないよりはマシだろう。
  仕方がないと頭を振りながら、良平はベッドから降りる。同じ欲求でも、複雑で不健全な自分の欲求とは違って翔の欲求はもっと単純で健全だ。
  冷凍庫からピザを取り出すとホールのまま大皿に移し、レンジへ突っ込む。レンジが回っている間にペットボトルのジュースを二本と、翔の好きなお子さま向けゼリーを用意して、寝室に持ち込む。
「しょーう、今夜はこれで我慢しとけよ」
  でなければ、明日の朝食の分がなくなってしまうと言外ににおわせて、良平は手にしたトレーを軽く掲げてみせた。
  返事を口にするよりも早く翔の手が、良平の手からトレーを奪い取っていく。
「ん、わかった」
  そう返した時には既にピザの四分の一は翔の口の中に消えてしまっている。育ち盛りのお子さまの胃袋を侮ってはいけないと思った瞬間だ。
「あっ、こら! 独り占めするなよ、翔」
  大皿の中のピザを一切れ手に取ると、良平も口へと運ぶ。早く食べてしまわないことには、きっと翔が狙ってくるはずだ。
「ええーっ、俺が腹減ってるだけなんだから、わざわざりょーちゃんが付き合ってくれなくてもいーんだけどさ」
  言いながら翔はペットボトルの口を捻り、あっという間に半分まで飲み干す。
「あ、お子さまゼリーのメロン味! これ、もらってもいーの?」
  いーの? と尋ねた時にはすでにゼリーの蓋は開封され、一口、いや二口は翔の口の中に消えていたはずだ。
  苛々と眉間に皺を寄せた良平は、不機嫌そうに頷いた。
「もう、好きにしてくれ」
  我が儘な弟というのは、こういうものなのだろうか? 友人たちからよく聞かされた、兄弟間の食べ物の戦いというのは、こういうことを言うのだろうか? 自分が食べようと思っていたものを目の前でさっとかっ攫われ、ペロリと胃袋に納めてしまうのを見届けなければならない、そんな腹立たしい光景なのだろうか?
  幸いなことに良平は一人っ子だった。のんびりと育てられたからだろうか、あまりがっついているようには見えないらしい。
  一方の翔も一人っ子だが、こちらは良平とは違ってちょこまかとよく動く。落ち着きがなく、騒がしく、我が儘で自分勝手、食い意地は人一倍。良平とは全然違う。負けず嫌いで泣き虫で、すぐに居眠りをする、翔。成長期に入ってからはいっそう食い意地が張ってきたように思えて、良平は気付かれないようにはあぁ、と大きな溜息をつく。
  別に誰が悪いというわけではない。
  ただ、もう少しだけ自分にも気を配ってもらいたいと思うのは贅沢なことなのだろうか?
「わ、やった! メロンの果肉ボールが二個も入ってる!」
  喜びながらも翔はスプーンを口に銜えて、良平ににこにこと笑いかけてくる。
「こら、行儀がわるいぞ、翔」
「だってほら、果肉二個目」
  そう言って翔は、メロンの果肉をスプーンですくって良平の口元へと持っていく。
「はい、あ〜ん」
  つられて口を開ける自分も自分だ。どうかしてると思いながらも良平は、翔のお子さまゼリーを相伴させてもらうことにした。言われるがままに口を開け、メロンの果肉を食べさせてもらう。
  ひんやりとしたゼリーに包まれた果肉が口の中に放り込まれ、良平は瑞々しい味を味わった。お子さまというネーミングはともかく、味は悪くはない。
「うまいだろ?」
嬉しそうに顔を覗き込まれ、良平の中に悪戯心がむくむくと沸き上がってくる。目の前で自分の言葉を待っている翔の腕をぐい、と引くと良平は、年下の恋人の唇に重ね合わせる。
「ん……っ」
  チュ、と音を立てて唇を離すと、照れ臭そうに翔は笑っていた。
「……メロン味だった」
  少し掠れた声で翔が告げる。確かに、と良平も思う。今のは、間違いなくお子さまゼリーのメロン味のキスだった。
「俺……ごめん、りょーちゃん。俺、りょーちゃんのこと、信じてなかった。ごめん。疑ってごめん、りょーちゃん」
  言いながら感情が高ぶってきたのか、翔はいつの間にか半べそをかいている。やっぱり泣き虫なところは昔のまんまだ。
「また泣いてる」
  そう言って良平は、コツン、と翔の頭を小突く。
  翔のこんな表情を可愛いと思ってしまう自分のほうが、問題だろう。自嘲気味に笑いながら良平は、翔の体を抱きしめた。
「もう、いいって。僕もちゃんと話さなかった。お互い様ってことで、終わりにしとこう」
  これ以上は時間の無駄だと言わんばかりに良平は、翔の耳たぶをかぷりと甘噛みする。
「だって……」
  尚も何か言いたそうにしている翔の唇に指を押し当て、良平は「今回のことは、これでもうおしまい」と宣言する。
  唇を尖らせ、ぷう、と頬を膨らませた翔は納得できないようだったが、良平の腕の中でそのうちおとなしくなっていく。毛を逆立てて怒っていた仔猫が気を静めていくのは、もしかしたらこんな感じなのかもしれない。
「じゃあ、仲直りにちゃんとしたキス、しよう」
  それで何もかもチャラにしてあげるからと翔が言うのに良平はまんまと乗せられて、キスをする。
  さっきから何回もキスをしているというのに、我ながらチョロいものだ。翔の柔らかな唇を味わいながら、良平は思う。
  ここしばらくぶりでようやく、翔の気持ちが穏やかになったのが感じられるような気がした。



  キスを交わして、裸になって、抱き合って眠った。
  翔の胸の中でチクチクとしていた目に見えないほどの小さな棘は、いつの間にかなくなっている。
  きっと、良平と仲直りのキスをした時にでも、胸の中からポロリと抜け落ちて、どこかへ消えてしまったのだろう。
  良平の腕の中で翔は、穏やかな寝息を立てている。
  この場所がいちばん安心できる場所だと、翔は既に知っている。この先、良平の気持ちが自分に対して閉ざされることがあったとしても、次はもっとうまくやり過ごせるだろう。
  うまくやり過ごすためには、良平を信じればいいのだ。
  そんな単純で簡単にことに翔は、今の今まで気付かなかった。
  でももう大丈夫だと、眠たい頭の中で翔は思う。
  小さく身じろぐと、良平の腕がさらにぎゅっと翔の体を抱きしめてくる。少し苦しいけれどあたたかな腕が、愛しくてならない。
「りょー、ちゃ……」
  寝息の合間に翔が呟くと、チュ、とこめかみに唇が下りてきた。
  無意識のうちに翔は、良平の体にしがみついている。
  ぎゅう、と子どものように良平しがみついた翔は、健やかな寝息を立てて眠り続ける。
「おやすみ、翔」
  恋人の耳元に優しく囁きかけると、良平も目を閉じる。
  喧嘩をしてようが、仲良くしてようが、二人には関係なく、朝はやってくる。朝になったら朝食を食べて、身支度を整えて、学校へ向かわなければならない。翔は勉学のため、良平は仕事のために。
  どうせ日々を過ごさなければならないのなら、楽しいほうがいいに決まっている。
  楽しい時間なら、あっという間に過ぎていくだろう。それが互いに好き合っている同士と一緒なら、余計に早く時間は過ぎるはずだ。
「一緒に、いようね……」
  もぞもぞと寝返りを打つと翔は、口の中で小さく呟いた。寝言だろう。
「そーだな。一緒にいような、翔」
  暗がりの中で良平がポソリと返す。
  後はしんとして、二人の微かな寝息が部屋の中には響くばかりだった。



END
(H24.6.20)



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