見えない棘 2

  気持ちがしっくりとこない時には、抱き合っていてもちっとも嬉しくない。
  自分から誘っておいて翔は、逃げ出したい気持ちに駆られていた。
「りょーちゃ……っ……」
  ぎゅっと目を閉じて、翔は良平を受け入れようとする。
  だけど身体は良平を頑なに拒んでいる。
「翔?」
  どうかしたのかと、良平が尋ねる。
  翔がかぶりを振ると、良平は溜め息を吐いて成長期の細っこい身体を抱きしめた。
「学生の頃にさ……」
  と、唐突に良平は喋り出した。翔が心の中に何かを抱えていると知った上でのことだった。
「初めて女の子とラブホに行ったんだ」
  翔はもぞもぞと動き、良平の腕から逃れようとする。しかし良平の腕はしっかりと翔に絡み付いていて、ちょっとやそっとじゃ放してくれそうにもない。
「彼女は僕の言葉に頷いて大人しくついてくるから、僕と同じ気持ちでいるんだと思っていたよ……」
  そう言って、良平は翔の髪をくしゃくしゃと撫でた。
「だけどさ、違ったんだ。彼女は、ラブホテルに行きたいとは思っていなかったんだ。同じエッチをするにしても、清潔なシティホテルのようなところでロマンチックに、って考えていたんだ」
  そんな話、聞きたくない──翔は、咄嗟に耳を塞ごうとした。
「……翔」
  良平の手ががしりと翔の腕を掴み、あっという間に体勢を変えると翔を身体の下に組み敷いた。
「嫌なら嫌と、はっきり言わないと駄目だぞ」
  暗がりの中、良平の真摯な眼差しは真っ直ぐに翔を凝視している。
  翔は黙って良平を見つめ返していた。少し怯えた、傷付いた草食動物のような眼差しで。
「──…だ……」
  蚊の鳴くような小さな声で翔が呟く。
  が、良平にはその声は、小さすぎて聞こえない。
「はっきりと言ってみろ」
  良平の言葉は、かえって翔を苛立たせた。
  ──なんでりょーちゃんは、俺のこと、解ってくれないんだよ?
  これまでに溜まっていた不平不満が、じわじわと胸の奥底から沸き上がってくる。ドロドロとした醜い憤りは、翔の思考力を鈍らせようとしていた。
「……俺、りょーちゃんがこんなにも嘘吐きだったなんて、思ってもいなかった」
  腕をシーツに縫い付けた良平の手を力任せに振り解くと、翔はベッドから飛び降りた。
「樹里って子のこと教えてくれるまでは、絶対に口なんかきくもんか!」



  終電後のホームは人気もなく、物悲しい感じがする。
  深夜の駅前は、薄暗かった。
  翔は踏み切りを渡りながら、横目にぽつりと佇む真夜中のホームを眺める。まるで今の自分の気持ちとそっくりだと、翔は思わずにはいられない。
  慌ただしく衣服を身に着けて良平の部屋を飛び出した翔は、とぼとぼと家までの道程を歩いていた。自転車を良平のアパートの駐輪所に置いてきてしまったのは失敗だった。
  心の中がもやもやしていて、何だかすっきりしない。
  何も考えずにいようと思うのだが、どうしてもあの女の子のことを思い出してしまう。
  彼女──名前も知らない、彼女。良平につきまとい、翔に不安の種を植え付けた、彼女。いったい何のつもりで、彼女は良平の前に現れたのだろう。樹里とかいう後輩のためだけに、彼女は良平の前に現れたのだろうか。
  ──だけど。
  と、翔はぼんやりと思う。
  その割に良平は、彼女のことも、樹里とかいう子のことも知らないようだった。学生時代、良平があたり構わず手当たり次第に女の子たちと恋愛ごっこをしていたというのなら、それもわかるような気がするのだが、そこまで節操なしに女の子たちと付き合っていたというわけでもないようだ。翔が知っている限りでは、良平は色恋沙汰で失敗をしたことは決してなかった……というか、後腐れの残る別れ方をして、あんな風に部屋まで押しかけてこられたことは一度としてなかった。
  それとも、今回に関しては例外なのだろうか。
  堂々巡りの輪の中で、翔は混乱した頭を抱えるしかなかった。
  わからない。
  何も、わからない。
「わからない、わからない、わからない!」
  夜道を歩きながら一人で叫んだ途端、翔は誰かに怒られてしまった。
「こらっ、塩崎!」
  ビクッと首を竦めて翔は、声のした方向へ向き直る。
  視線の先には、どこかあどけない表情をした男が外灯の下で立ち尽くしていた。
「有科…先生……」
  良平と同期の教師でもある有科は、悪戯っ子のような何とも言えない笑みを浮かべて翔を眺めている。
  翔が黙りこくったままその場に佇んでいると、有科のほうから声をかけてきた。
「これから夜食を食べに行くんだけど、一緒に行くかい?」



  翔が連れて行かれたのは、学校のすぐ側にある喫茶店だった。
  通り一つ向こうの車道沿いにあるその喫茶店は、なかなか生徒の目にはつきにくいのか、翔には初めての店だった。
  こんな時間まで営業しているのかと翔が感心していると、有科が言った。
「身内の店だから、他の生徒には言うなよ。学生の溜まり場になって迷惑かけたくないから」
  翔は黙って頷いた。
  何だか、良平を裏切っているような気がしないでもない。
  大好きな良平の部屋を飛び出して、隣のクラスの担任と一緒に真夜中の喫茶店に入るなんて……
「とりあえず、どうぞ」
  有科がドアを開けると、カウンターでは有科をもうちょっと大人びた雰囲気にしたような男性が水仕事をしていた。
「あれ…おかえり、槇」
  有科はカウンター席の一つにさっと腰かける。仕方なく翔は、その隣のスツールに腰を下ろした。
「ただいま。今日は学校の生徒を連れてきたから、何か食べさせてくれる?」
  有科が言うのに、カウンターの彼はてきぱきと手を動かしながら頷く。
  翔は居心地悪そうに椅子の上でもぞもぞとした。
  狭い店の中をざっと見回すと、奥の席にはノート型のパソコンを広げて忙しなさそうにキーを叩いている男性がいた。店の大部分を占めるグランドピアノにもたれているのは、従業員だろうか? 時折、気紛れに翔の知らない曲を弾いている。翔とは反対側になる奥のカウンター席に着いているのは派手な顔立ちの女の人──保健室の主、宮原先生だ。
「どこかの悪餓鬼みたいな顔してるわね、その子」
  保健医が不意に言った。
「悪餓鬼って?」
  有科が尋ねると、女はにっこりと笑って返した。
「あんたが学生の頃って、そんな感じだったわよ」
「……やめてよ、ミヤ先輩」
  有科は決まり悪そうに小さく笑った。彼が何か言い返そうと口を開きかけたところへ、ドアが開いて……あの少女が、飛び込んできた。
「美夜ちゃん、遅くなってごめん!」
  あの子だ──店のドアを乱暴に開け放った客は、先程、良平の部屋まで押しかけてきた彼女だった。身を硬くして翔は、彼女を見つめている。何か言いたいのだが、言葉が出てこない。喉の奥まで言葉のようなものが込み上げてきてはいるのだが。
「いいわよ。あんたの頼みなんだもの。聞かないわけにはいかないでしょう?」
  カウンター席に座ったまま宮原は、親しげに少女を見つめる。顔立ちはそう似ているわけでもないのに、雰囲気がどことなく似ているように翔には思われた
「はい、これが鍵。あたしはこれで帰るけど、時間も時間だからあんたは有科んとこの末っ子に送ってもらいなさい」
  女の人が言うと有科は、
「言われなくてもわかってます」
  と、横から言葉を引き受ける。
  宮原は支払いを済ませると店を後にした。
  翔はちらちらと少女のほうへと視線を馳せていた。そうしながらも、何か言わなければと心の中で思い続けている。何か…──何か、言葉を……
「そう言えば……塩崎の家はどのあたりなんだ?」
  有科に尋ねられ、翔の心臓は飛び上がりそうだった。あの子の側にいるのに、そんなに大きな声で名前を呼ばないでほしかった。
「あれ……槇ちゃん、その子……槇ちゃんのクラスの子?」
  翔の存在に気付いた少女が、言葉を選びながら有科に話しかける。どうやら二人とも随分と親しいようだ。
「違う、違う。隣のクラスの子だよ。さっき、すぐそこの四辻で会ったから連れてきただけ」
  有科が言うのに、少女はふーん、と興味なさそうな様子で頷く。
「へーぇ。槇ちゃんに告げ口しに来たのかと思っちゃった」
  悪びれた様子もなく、彼女は翔に言う。
「え…なに、何の話?」
  有科が横から口を挟んでくるのに、少女はぶっきらぼうに返した。
「何でもないわよ、槇ちゃん。あたしの後輩が森岡って名前の教師にこっ酷い扱いを受けたから、そのお礼をしたいなって思っただけ」
「森岡って……うちの教員の森岡のこと?」
  怪訝そうに有科は尋ねる。
「そうなんじゃない?  あたしは、杉澤で教師やってる森岡としか聞いてないけれど」
  少女が言うと、有科は困ったような表情で翔と彼女の顔とを見比べた。
「下の名前は解らない?」
  尚も有科が尋ねかける。彼女は難しそうな顔をして「わからない」とだけ、答えた。
  翔は不意に、有科の質問の答えに気付いた……ような、気がした。
「もしかして…──」
  有科が言いかけるのに、翔の声が被さる。
「森岡かっちゃんのほうだ!」



  最終下校の時刻を過ぎた校内は薄暗く、静かだった。
  女子校に入学したばかりの樹里は、担任の森岡克之に憧れ以上の気持ちを抱いていた。
  くるくるとカールした髪に、細いフレームの眼鏡。小柄な樹里は、まだあどけなさの残る少女だった。
「森岡先生、樹里のこと好き?」
  程よく日焼けした肌の克之はスポーツマン・タイプの教師で、女生徒だけでなく男子生徒にも信奉者が多かった。
  克之は自分の言動が生徒に与える影響力を知っていた。
  耳元でちょっと巧いことを囁くだけで、克之に好意を抱く生徒たちは言いなりになってくれた。何人もの生徒が面白いように、自分の言葉に左右される。当時の克之にとって生徒は単なる玩具でしかなく、職場は、金もうけと欲求を満たすための場所でしかなかった。
「もちろん。樹里が一番だよ」
  少女の肩を抱き寄せて、克之は低く囁きかける。
  頬を赤らめ、樹里は克之に身を任せている。
  そうして……どれほどの時間が過ぎただろうか。不意に教室のドアが開いてその瞬間、二人の関係は脆い波のように砕け散ってしまった。
  二人の関係を目撃したのは、学園長だった。
  克之は翌日には辞職届を学園長宛てに提出し、願いは聞き届けられた。
  一年前のことだ。
  克之に捨てられたような形で学園に残った樹里は以来、男嫌いになってしまったという。
  その樹里が、父親の転勤を機に寮生活に踏み切った。父のためにも、新しい生活は嫌だと子供じみた愚痴を言いたくはなかったし、新しい学校は共学だと聞いていたからだ。
  寮に入った樹里は面倒見のいい彼女と出会った。一年先輩の宮原美似──れいの、良平に食ってかかった女子高生だ。
  美似は大人びた雰囲気の少女で、一つしか樹里とは学年が違わないのに、随分と年上のように思えるところがあった。学園には彼女を慕う後輩や友人たちがそこここにいて、中には、彼女に心酔するあまり寮生活に踏み切った生徒もいるとかいないとか。とにかく、美似に樹里が依存しきってしまうまでにそう時間はかからなかった。もともと樹里は他人に依存することに慣れていたし、美似は美似で、そういった種類の人間にはついつい手を貸してしまうのが常だったのだ。
  森岡克之が杉澤にやってきたのは、学園長の紹介があったからだ。このまま教師を続けるのならばしばらく男子校で教えてみないかという話で、彼は学園長の申し出を受け入れるより他に道はなかった。そうしなかったなら克之は今ごろ、教師としての道を絶たれていたかもしれない。
  克之は学園長に言われた通り杉澤に転勤し、そこで彼は、有科や良平たちと共に生徒を教えることになった。
  前科を知る者がいないところで一からやり直すのは非常に楽だった。
  克之は持ち前の人当たりの良さであっという間に生徒たちから慕われるようになった。
  杉澤での克之は、そう悪い人間ではなかったかもしれない。生徒たちの兄貴分として様々なアドバイスをしてくれる、魅力ある教師として彼は杉澤での人気を得たのだ。



「もしもし、森岡先生ですか?  夜分にすみません。有科です」
  店の電話から有科は、良平の部屋へと電話をした。
  有科は、今回のことを良平に何と言うのだろうか。翔としてはすぐ近くで電話の内容を聞いていたかったのだが、有科は店の奥へと消えていった。当然ながら有科がどんなことを良平に話したのか、翔には解らない。
  良平の到着を待ちながら翔は、胸の底がじんわりと疼き始めたことにすぐに気付いた。
  良平は何も知らなかったのだ、あの樹里とかいう少女のことは。それが解って翔は嬉しかった。と同時に、翔は何も知らなかったとはいえ、良平を疑ってしまった自分の浅はかさを実感した。胸がちくちくと痛むのは、そのせいだ。
  良平が迎えにくるのを待つ間、翔はどんな顔をして会ったものかと思案していた。半べそをかいて良平の部屋を飛び出したのは、ほんの小一時間ばかり前のことだ。なんだか決まりが悪いのと、早く会いたいのとで、翔の胸の内は複雑な心境だ。
  十分ほどして店の前の上り坂を勢いよく上がってくる車のエンジン音が響いてきた。
「あれ、もう着いたのかな?」
  心持ち首を傾げ、有科は入り口のほうへと視線を向ける。
  すぐにドアがキィ、と開いて、申し訳なさそうな神妙な顔つきで良平が入ってきた。
「森岡先生……」
  ほっとしたように有科がスツールから立ち上がる。
「りょーちゃ……」
  つられて翔も入り口のほうを振り返った。
  心配そうな顔をしていたものの良平は、有科の前では担任の表情を装っていた。
  そのくせ内心では酷く怒っているようだ。良平はこれまでにないほど痛い拳骨を翔の頭にくれてやると、有科のほうに向き直って深々と頭を下げた。
「すみませんでした、有科先生。うちの塩崎がご迷惑をおかけしまして」
  そんな真摯な良平の声を聞きながら、翔は幸せな気分に浸っていた。
  さっきまでのドロドロとした嫌な感情が濾過された今は、良平に拳骨で殴られたことなど、これっぽっちも気にもならない翔だった。



END
(H14.9.28)
(H24.4.22改稿)



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