『星月夜の果てに 3』

  しばらくの間、山を歩き回る日々が続いた。
  一見、でたらめに歩いているように見えたが、カゲハは少しずつ里から離れていた。
  極端に離れすぎず、かと言って近すぎず、適度な距離を保って里から離れていく。
  一人でなら、無理をしたかもしれない。しかし今はイサリがいた。忍び者としての訓練を受けたことのないイサリに、無理を強要することは出来なかった。日中、カゲハは出来るだけイサリの歩調に合わせて進んだ。日が暮れると適当なところできりをつけ、手近な隠れ場所を探して休息を取った。
  夜は、イサリの疲れ具合によって、抱いたり抱かなかったりだった。
  若いカゲハが加減をしても、昼間の強行軍で疲れたイサリの身体には負担がかかるようだった。イサリ自身、このまま無事に国境を越えられるのかどうか、不安に思い始めてもいた。
  山を越えてしまうと隣の領主の領地に入る。
  仲間たちは当然だったが、草の者にも感付かれないようにしなければならない。
  関所が近付くに連れてカゲハは次第に緊張を募らせていった。



  明日は国境の山を越える予定だ。
  隣の領地に入ってしまえば、忍びの者としてではなく、普通の農民として生きられる。
  いや、カゲハは武道に優れているから、もしかしたらお侍になることができるかもしれない。
  そうしたらイサリは、小さな畑を耕してカゲハと二人して暮らしていくのもいいかもしれないと考えていた。
  男二人だと胡散臭がられるかもしれないから、兄弟だと偽ればいい。二人は同い年だが、カゲハは同い年の子の中では特に抜きん出て大きかったし、イサリは逆に小柄で華奢な体付きをしていた。
  里と訣別し、二人きりで新しい土地で暮らす。
  そう思っただけでイサリの心は逸り、自然と足取りも速くなった。
「あと少しだな」
  イサリの心が通じたのか、不意にカゲハが優しく微笑んで言った。
「……はい」
  頷いて、イサリもにこりと微笑む。
  この先には、自由が待っている。
  慰み者として扱われることのない、自由。忍びの者の里とももうこれで何の関わりもなくなってしまうのだと思うと、それだけで目頭がじんわりと熱くなる。これが嬉し涙というものなのかと、イサリは感慨深げに思った。
「今日は早めに休むことにしよう」
  カゲハはそう言うと、あたりを見回してどこか野宿の出来そうな場所を探した。
  山中のことだ、民家の影もなく、辺りには鬱陶しいほどに木々が生い茂っている。風に煽られ、葉の落ち始めた木の上で休む日もあれば、ごつごつとした木の根を枕に休むこともあった。洞窟があれば洞窟に、うち捨てられた社が見付かればそこで、里の者たちから姿を隠しつつ、二人は身を休めた。
  そうやって二人は、ここまで無事に来ることが出来た。
  しかし……カゲハの心の中に巣喰う猜疑心は、まだ安心してはならないと告げていた。周囲をよく見回し、警戒を続けろと告げている。
  妙なのは、これまで一度として里の仲間が姿を現わしていないことだ。
  里を後にしてかれこれ一週間になろうというのに、誰一人としてカゲハたちを追ってこないのだ。
  誰も二人が逃げたことに気付かないはずがなかった。
  ──それなのに、何故?
  やがて猜疑心は不安へと、焦りは苛立ちへ変化していく。
  カゲハの神経も、そうだ。
  少しずつ、少しずつ、カゲハの神経はすり減っていく……。



「今夜はあの木の上で休もう」
  日暮れ前に、二人はちょうどいい太さの幹を見つけた。枝振りがよく、木の葉に隠れるようにして二股の枝が張りだしている。二人が身を寄せ合って一晩を過ごすにはちょうどいい具合の枝だ。
「はい」
  頷いたイサリの肩を、カゲハは優しく抱いた。
「休む前に……少しだけ、いいか?」
  顔を近付けられ、イサリが答える前に唇をきつく吸われた。
「んっ……ぁ……」
  すっかり手順にも慣れたカゲハが、イサリの唇をきゅっと吸う。唇を離すとイサリの唇はさらに鮮やかな朱色に色付いて、より一層カゲハを誘う。
  カゲハは再びイサリに口吻を与え、舌を絡めた。
  イサリの手が形だけでも拒もうとすると、手首を掴まれ、ごつごつとした木の幹に押し付けられた。
  その間にもカゲハの手はイサリの着物の裾を割り、太股から股間へとかけて執拗な愛撫を始めている。カゲハの膝が、イサリの股の間に楔のように入り込んでくる。足を閉じることができなくなったイサリは身体の自由を奪われながらも、カゲハの口吻に熱心に応えている。
「やっ……だめ……」
  唇が解けて自由になった首を横に振り、イサリは言った。そう言いながらもイサリの身体は既に熱く高ぶり始めている。カゲハの手が触れた部分すべてが熱くなって、じんわりと火照ってくる。
「こんなところで……」
  イサリがそう言うと、カゲハは淡い笑みを浮かべて返した。
「今までだって、こんなところでしてきただろう?」
  カゲハが言ったその瞬間…──鋭い音が辺りの空気を切り裂いた。
  シュ、と空を切るような鋭い音がして、イサリの手が木の幹に縫い止められる。
「ぅ…あああああああぁぁぁぁぁぁぁ!」
  甲高いイサリの声が、腹の底から絞り出されたような苦しげな声が、あたりの空気を震撼させた。



「ぁああああぁぁ……痛いぃ……ああああぁぁぁぁぁぁぁ……」
  五寸釘だった。
  イサリの白い手は五寸釘によって木の幹に縫いつけられていた。そしてもう一本、反対側のイサリの肩をも、木の幹に固定してしまっている。磔にされたイサリは、口から涎を垂らしながら泣き喚いている。
  慌てて五寸釘を引き抜こうとしたカゲハだが、背後に人の気配を感じて振り向いた。
「不知火の源伍…──」
  尚も喚き続けるイサリをそのままに、カゲハは背後の忍び者と向き合うような形で立ち尽くした。
  音もなく男が佇んでいた。両手は無防備なままだらりと脇に垂らし、鋭い眼光は隙なく若い二人の様子を窺っている。皺の刻まれた目元は厳しく、鉤爪のように曲がった鷲鼻は見る者にいかつい印象を与えている。対峙しただけでは源伍が武器を見せないという噂は本当のことらしく、今も彼は手に武器を持っていない。流石に中忍だけあって、源伍には堂々とした風格が板に付いている。無防備なはずなのに、一分の隙もない源伍の様子にカゲハは目を細くした。
「里を抜け出した者がどうなるかは、承知の上だな」
  重々しい口調で源伍が言う。
  カゲハは黙って源伍のすぐ左手に視線を移す。最初、五寸釘を投げたのは源伍かと思ったのだが、どうやらそうではなかったようだ。
  カゲハと源伍のちょうど中間あたりにある繁みから、殺気が漂ってきている。おそらくそこに隠れている者が五寸釘を放ったのだろう。
  じりじりと後退りながら、カゲハは懐に隠し持っていた鎖分銅に手を伸ばす。
「おっと、お前の相手はこのオレ様なんだぜ」
  突然、男が繁みの中から飛び出してきた。
  カゲハはその瞬間、源伍の顔に苛立ちの色が過ぎるのを見逃さなかった。
「少しばかり強いからっていい気になっていると、痛い目に遭うぞ」
  にやにやと男は笑う。黄ばんで薄汚れた歯が、締まりのない口の中から覗いている。
「……やってみないと解らないさ」
  見栄を張ってカゲハは言った。
  たとえこの忍び者に勝ったとしても、彼の後ろには源伍が控えている。カゲハには源伍に勝つだけの自信がなかった。もしかしたら相打ちに持ち込むのでさえ、やっとのことになるかもしれない。
  分銅を取り出して構えると、ジャラリと鎖の音がした。
  カゲハは男との戦いに、意識を集中した。



「ああああああああああああっ……ぅぅぅぁああああああ……痛い……痛い、痛いよぉぉぉぉ……!」
  叫び続けるイサリの前に、源伍は静かに立ち尽くした。
  二人の背後では、今や抜け忍となってしまったカゲハと源伍の部下にあたる下忍の男とが闘いを繰り広げている。
「みっともない真似をするな」
  源伍は喉の奥から低い声を絞り出して言った。
「お前は……お両の子ではないのか?」
  言いながら源伍は、イサリの肩に刺さった杭を力任せに引き抜いた。
「ひっ…ぅ……ああああああぁぁっ……」
  焼け付くような痛みがイサリの身体の中で渦巻いている。杭の抜ける感触と、肉を抉られた痛みが追い打ちをかけるように悲鳴となって辺りに木霊する。
「お両の子なら、これしきのことで狼狽えるな。自分を失うな。あの女はお前以上に気丈だったぞ」
  そう言って、源伍は二本目の杭をイサリの掌から引き抜いた。
「うぅぅっ」
  イサリは痛みで気を失いそうだった。
  傷口からは血が溢れ、だらだらと流れ出している。ともすれば地面へとずり落ちそうになるイサリの身体を片手で支えると、源伍は煙玉を目の前に差し出した。
「これは……お前が使うのだ。やれ。お前と共に逃げたあの男を助けたければ、これを使え」
  朦朧とする意識の中で、イサリは源伍と煙玉とを見比べた。
  痛みで、目の前はぼんやりとしている。源伍の顔は解る。母の両が恋いこがれた男の顔だ。この男が自分の父なのだと思うと、イサリは安心して何もかもを彼に任せたくなった。
「さあ、やれ。お前があの男を助けるんだ」
  落ち着いた低い声が、イサリの耳の中に染み渡る。
  戸惑いがちに手を差し伸べる。腕に力を入れるのが困難で、痛みのためにどうしてもぎこちない動きになってしまう。
  血に濡れた手を差し出し、イサリは煙玉を受け取った。
  次の瞬間。
  パン、という音がして、火薬のにおいが辺り一面に漂った。



(H14.10.10)
(H24.3.14加筆修正)



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