あたしはウェンディ・ファーネル。
ディと呼んで──と、言い続けて三年が経った。今、十六才。両親は健在で二人ともプレス工場で元気に働いている。兄弟は、来月の頭には十一になる弟がいて、この子はリックという。よその家の十一才の男の子はときどき、本気で憎たらしいときがあるけれど、リックは少し……どころではなくて、本当に気が弱い。いつもあたしのスカートの陰に隠れていて、おどおどと後をついてくるような、そんな子。
あたしが自分のことを「ディと呼んで」と初めて言ったのは、十三のとき。
あたしより一つ年上の兄のテオドアが事故で亡くなった次の日のこと。
両親は、兄に頼りっきりだった。
賢くて、優しくて、いつでも相談に乗ってくれた兄さん。
事故の日、あたしたち兄弟は一緒に遊んでいた。いつものように、シティの共同公園で。 あたしと兄さんとは、レクリエーション・ルームで仲良くSLGの戦略ゲームをしていた。土地の両端から攻めていって、自分の領土を広げていくゲームだ。リックは確か、あたしの横でそれを眺めていた。
事故が起こるなんて、誰も考えてはいなかったと思う。
だって共同公園は市民が安全に過ごすことのできる公共の場で、もっとも安全性の高いと言われている場所の一つだったから。
でも。
事故は、起こった。
ううん、事故なんかじゃない。
仕組まれた暴動だ。
あたしと兄さんとが遊んでいたら、突然、警報ブザーが部屋中で鳴り響いたのだ。あたしたちは部屋に閉じ込められていた。あたしたち──あたしと、兄さんと、リック。それに、男の子が三人と、女の子が四人。女の子一人を除いて、皆、あたしと同じぐらいの年の子たちだった。
「ドアを開けて」
ブザーの音に驚いて部屋を出ようとした女の子がドアの前で叫んだ。ブザーが鳴ったときは、共同公園の防御システムが作動して、部屋の中の人間を守るような作りになっている。だから、部屋の中にいるほうが安全なのに。それなのにその子は、部屋から出たがっていた。
「開けて」
神経質そうにドアを叩きながら、女の子は叫んだ。
あたしたちのあいだに奇妙な空気が流れた。連鎖反応とでも言うのかしら。
女の子のやっていることがまるで正しいことだと言うかのように、皆、ドアのところに駆け寄ると、力一杯ドアを叩き始めたのだ。
可哀想なリックは青い顔をして、あたしのスカートの裾をぎゅっと握りしめていた。
ゲーム用のモニターは、共同公園の管理システムにつながっている。
兄さんは異変を感じるとすぐに、マウスをクリックしてシステムを呼び出した。
「こちらSLL−3号室。十人部屋に閉じ込められています。詳細を教えてください」
兄さんは落ち着いていた。
誰よりも。
大人なんだな、とあたしは思った。同時に、すごく安心した。兄さんが一緒ならなにがあっても大丈夫だ。怖いことなんて、なにもない。
「ウェンディ、なにがあったの? 僕たち、どうなっちゃうの?」
スカートの裾を引っ張って、リックが尋ねる。
「大丈夫よ、リック」
「ほんとうに?」
「もち、本当よ。兄さんがいるんだもの、大丈夫に決まってるじゃない」
あたしは言った。
きっと兄さんがなんとかしてくれる。兄さんに任しておけば、あたしたちは安心してドアが開くのを待っていられる。だって、兄さんがあたしたちを危険な目に遭わせることなんて、絶対にないもの。
に資産と管理システムとの間で、難しい言葉のやり取りが続いている。そのあいだにあたしは、狂ったようにドアを叩いていた子たちを一ヵ所に呼び集めていた。あのままだと怪我をする子が出てくるかもしれなかったし、なによりも、うるさくてたまらなかったから。
「兄さん、どうだった?」
システムとの通信が終わった兄さんに、あたしは、他の子たちに対して優越感を感じながら、尋ねかけた。兄さんはなんでも知っている。あたしたちに比べれば。今だって管理システムにアクセスしていた。あたしや他の子たちは、そんなこと考えつきもしなかったってのに。
「うん……」
言いにくそうに、兄さんはあたしの目を見る。
父さんや母さんに相談できない重大なことを抱えているとき、兄さんは、こんな瞳をすることがあった。
「少し、時間がかかるのね?」
と、あたし。
兄さんはほっとしたように淡く笑った。
「ああ、少し、ね」
そう言ってから兄さんは、あたしにだけわかるように小さく目をつぶってみせた。あたしも、兄さんにだけわかるように、笑みを返す。あたしと兄さんは特別なのだ。精神的な面でのつながりが、とても強い。あたしと兄さんのように、兄弟であれ、他人であれ、精神的つながりの大きい子どもは、ペア・チャイルドと呼ばれる。相手の気持ちを、ほとんど完璧に理解することができるのだ、あたしと兄さんは。能力級は決して高くはなかったけれど、それでもあたしたちは互いの気持ちに同化することができた。それで充分。だって、自分のペアに巡り会うことができるのは子どものあいだだけ。子どものときにペアに出会えなかった人たちは、一生、自分のペアに出会うことができないのだから。大人になるにつれて、精神の波長を合わせることができなくなるのだと、チャールズ先生が言っていた。
「……僕たちは、ここでおとなしくしていなくちゃならない。外で事故があったんだってさ」
兄さんが言うと、皆は兄さんのほうへと視線を向けた。
不安な眼差し。
リックはもそもそとあたしの腕にしがみついてくる。怖がっているんだ。
「大丈夫だよ。一時間もすれば、ドアは開く。それまで僕らは、おとなしくしてなきゃならないだけだよ」
不安なんて感じさせない、そんな笑みで兄さんは皆を見回す。
そうよ。
兄さんがいるのに、怖いものがどこにある、って言うの?
「一時間って、どれくらい?」
一番年下の女の子が無邪気に聞いてきた。
「馬鹿だな。一時間は、一時間だろ」
男の子が言った。あたしこの子、知ってる。学校で見かけたことあるもの。確か、お隣りのクラスのクライシュ・ムサ……だった、かしら?
「ねえ、一時間って、どれぐらい? ずっとなの? ニン、わかんない……」
小さな女の子がわっと泣き出したので、兄さんは優しくその子を膝に抱え上げた。
「すぐだよ。もうすぐ。ドアが開いたら、おうちに帰ろうね」
くしゃくしゃの金髪をなでつけてあげながら、兄さんは優しく告げる。ニンはすぐにおとなしくなって、うとうとと眠りはじめた。
あたしたちはそれからたっぷりと三時間は、部屋に閉じ込められたままだった。
ドアが開いたのは、システムの意思じゃない。
あたしにはなんとなく、そんな気がした。
兄さんも同じ気持ちだったようだ。訝しそうに、じっとドアの先を睨つけている。
「どうしたの? 外に行かないの? おうちに帰らないの?」
ニンが、兄さんの手を引っ張っている。
帰りたいのはやまやまなんだけれども、外に出るにはためらってしまう。本当に外は、安全なのだろうか。システムは沈黙したままで、兄さんとのアクセスをオフにしてからは一度もモニターに現れていない。
どうして? なにか、あった?
それとも、なにか都合の悪いことがあるのだろうか。システムにとって、都合の悪いこと。
たとえば……うーん、ダメだ。思いつかないや。
かだけど、今、ここから出ていくのは危険だ。
それだけはあたしにだってわかる。兄さんのほうをちらっと見ると、兄さんもそう思っているようだった。
「どうするの?」
と、あたし。
兄さんが部屋を出るのなら、あたしもついて行くけど。
「少し、様子を見てみよう」
兄さんは難しい顔をして言った。
他の子たちはそれぞれ勝手に、部屋を出ようとしている。思い出したようにドアのところへ行き、外が安全かどうか確かめてから、ドアの向こうへと足を踏み出し、走り去る。
「だめだ、行くな」
不意に兄さんが叫んだ。
それと同時に、シュウシュウという音が響いた。
「なに? 何の音?」
あたしはリックの手を掴んでいたから、外の様子を見ることができなかったのだ。
「ウェンディ、ニンを頼む」
ニンをだっこしていた兄さんは、彼女をあたしのほうへと押しやった。立ち上がり、ドアのほうへと歩いていく。
「だめよ、兄さん」
兄さんが外へ行くつもりだというのは、あたしでなくてもわかったと思う。
リックだって、怯えたようにあたしの手をぎゅっと握りしめてきたぐらいだもの。
「大丈夫だよ、ウェンディ。あの音がなんだったのか、確かめないことには外に出られないだろう?」 兄さんが言うことももっともなことだけれども、でも、なんとなく、外に出た子たちがどうなったのか、わかるような気がした。
「テオドア、行けよ。俺がこいつらの面倒を見ててやるから埋けよ」
クライシュが言った。
なんで関係のないこいつが、そんなこと言えるのよ? 思ったけど、口にはしなかった。緊急事態だということは、わかっていたから。こういうときにつまらないことで協調性を乱したりするのは、よくないことなのだ。
「ありがとう。悪いな、ムサ」
兄さんは笑って、ドアの陰から外の様子を伺う。
か外は……外は、静かだった。
兄さんを通して、あたしは、外の様子を感じることができた。あたしたちはペアだから、そういうことができる。兄さんは一人で外に出たけれど、あたしがついててあげる。できるだけ兄さんのこと、守ってあげるんだ。
「レーザーの跡だ」
兄さんの呟き。離れているのに、すぐ近くで兄さんが喋っているかのように感じることができる。こういうとき、あたしたちがペアでよかったと思うのよね。
<みんなは? 他の子たちは、どうなったの?>
あたしは、心の中で呟いた。この声は、兄さんに届いているはず。兄さんはすぐにきょろきょろとあたりを見回し、用心深く、他の子たちを捜しはじめたから。
「あれは……」
兄さんの声は震えていた。
状況はかなり悪いようだ。
<ね、もういいわ。もういいから、戻ってきて>
あたしは心の中で叫んだ。
危険信号があたしの胸の奥でちかちかと点滅していた。
「兄さん。戻ってきて!」
あたしが、守ってあげるから──
不意にレーザーの音がした。
あたしははっと顔を上げると、リックとニンから離れる。
行かなくちゃ。
兄さんを、助けに。
「おい、勝手に外に出るなよ」
またしてもクライシュが口出ししてきた。
「兄さんを助けないと」
あたしは、兄さんのペアなのよ。
ペアのいないあんたに、なにがわかる、ってのよ。
あたしはクライシュを睨つけると、ドアのほうへと歩きだした。兄さんの声が、あたしの心に伸びてくる。
<来るな。ウェンディ、来るんじゃない>
来るな、って言われたって、あたしは行くわ。
兄さんのことが心配なのよ。
あたしと兄さんは、たった二人きり。大切なペアなんだもの。代わりは、どこにもいないの。
どこにも。
<ウェンディ!>
兄さん……
ドアをくぐり抜けて、あたしは外へ飛び出す。クライシュの声なんて、聞こえない。聞きたくない。
廊下は血の海。
か制止を振り切って飛び出した廊下は、大量の血に赤く染まっていた。
「兄さん!」
部屋を出てすぐの曲がり角のところでうずくまる兄さんの姿を見つけたあたしは、すぐさま駆け寄っていった。
「大丈夫?」
「ウェンディ……ここは危険だ。すぐに逃げないと」
「兄さん、怪我したのね」
右足……膝のすぐ上のところから血が流れている。早く、手当をしないと。
「三人を連れておいで。今すぐ、ここから逃げるんだ」
逃げる? どうやって?
あたしは、兄さんの顔を見つめ返した。
兄さんに怪我をさせた管理システムから、どうやって逃げるというのだろうか。
それでもあたしは部屋の側まで戻ると、大声で言った。
「クライシュ、リックとニンを連れてきて。逃げるわよ」
なんでこんなことになってしまったんだろう。
あたしたちは、共同公園に遊びにきていただけなのに。
走りながら、あたしは思った。
管理システムはまだ警戒態勢をとっていたものの、あたしたちを攻撃してくることはなかった。ラッキーだ。あたしと兄さん、それにクライシュの三人だったなら、もっと楽にここから逃げ出せるだろう。だけどリックとニンがいるからそうもいかない。あの二人は子どもだから。走るにしても、二人に合わせるか、でなきゃ、二人を抱えて走るかだ。先に部屋を出た子たちのように、無差別にレーザーで焼き殺されていないだけ、あたしたちは運がいい。
あたしたちがいたSLL−3号室は、共同公園の三階にあった。
廊下をつっきって下のフロアに降りると、そこでも血まみれの人々があちこちに倒れていた。
どうして?
なんで、こんなことになっちゃったんだろう。
<ウェンディ>
兄さんの、声。
<余計なことは考えずに、逃げることだけ考えろ>
あたしは頭を振ると、今まで考えていたことをきれいさっぱり捨てた。兄さんの言う通りだ。今は、余計なことを考えていちゃいけない。
逃げるんだ。
下へ、下へ。
リックの手を引いて、あたしは走り続けた。
ニンの手を引いたクライシュが先頭を走っている。その次に、あたしとリック。兄さんはあたしたちの後ろだ。
共同公園の出入り口のドアが見えた瞬間、あたしは大きく息をついた。
これで安心だ。
外へ出てしまえば、安全だ。
あと少し。
ドアまであと三十歩ほどのところで、突然、兄さんが叫んだ。
「走れ、走れ」
狂ったような響き。
「走れ、みんな」
<走れ、走れ、走れ!>
あたしの心を通して、兄さんの声が拡散する。
走れ。
早く、早く。
もっと早く。
あたしは走った。
最後にはリックを抱き上げて。
クライシュもだ。ニンを抱いて、走っている。追いつかなきゃ。
でないと……
でないと──?
背後で、シュッ、という音がした。
「お兄ちゃん!」
リックが叫んだ。
ああ、レーザーの音だ。
後ろは向いちゃいけない。
だって兄さんが言ってるもの。
全力で走れ、って。
<ウェンディ、走れ。早くこの建物から逃げ出すんだ>
わかってる。
そんなの、わかってるよ。
<兄さんは?>
と、あたし。
ドアのところでくるっと後ろを向くと、レーザーがあたしとリックを狙って追いかけてきた。
<あとから行くから、早く逃げろ>
兄さんはそう言った。
ずっと後ろのほう、中央ホールの壁伝いに、レーザーが貫通した足と脇腹とを庇いながら、兄さんかがよろよろと歩いている姿が見えた。
「テオドア!」
のろのろしていたあたしに気づいたクライシュは、まだ建物の中にいる兄さんを助けに戻ろうとニンの手を放した。
「クライシュ……」
戻っちゃだめ。
言わなければいけないのに、声が出てこない。
「戻るな、ムサ。そのまま逃げろ。三人を安全な場所へ……」
兄さんの言葉は、最後まで聞き取れなかった。
管理システムが再び活動を始めたのだ。レーザーがシュウシュウと音を立ててフロアのあちこちに飛び交った。白い煙。プラスチックやなんかの溶けるにおいは臭くて、吐き気を催した。
「お兄ちゃん」
リックが、嫌なにおいのする建物に向かって呼びかける。
一刻も早くここから立ち去ったほうがいい。
わかっているのに足は動かない。
あの白い煙の向こうで、兄さんがどうなったか、わかってしまったから。
<兄さん>
あたしは、心を通して兄さんに呼びかけてみた。
応える声なんてないことは、わかっているのに。
<兄さん……>
早く。
ここから少しでも早く離れないと。
か行かなきゃ。
──と、声がした。
兄さんの、声。
<ウェンディ>
あたしは慌てて心の声に耳を傾けた。
<僕は、まだしばらくお前のペアだ。お前が、本当のペアを見つけるまでは>
微弱な、かすれた声。
心に届く声は次第に小さくなって、聞こえなくなっていく。
<兄さん>
何か話して。
声を、聞かせて。
<ウェンディ、逃げろ>
わかってる、そんなこと。
<……から、逃げろ>
え?
なに?
<逃げろ──>
わかってる。
わかってるってば。
言われなくたって、あたしは逃げる。
絶対に。
あたしの心の中で、兄さんの声がいっぱいに拡がり、散っていった。無駄だとわかっているのにあたしは、その声をかき集めようと、意識を集中させている。
なにやってんだろ、あたし。
「お姉ちゃん。ねえ、お姉ちゃん」
リックが、あたしの手を強く引いている。
目まいがした。
自分の身体が、自分のものじゃないみたいだ。
同化する意識がないというのは、こんなにも不安なことなのね。
頼りない。なんて頼りないのだろう、今のあたしは。まるで、あたしではないような、そんな感じがする。
「ウェンディ、行くぞ」
クライシュが言った。
あたしの足は、やっとのことで地面を蹴って、駆け出した。
どこに逃げたらいいのだろう。
兄さんは、逃げろと言った。
だけど、どこへ?
どうやって?
なにから?
──そう。
なにから逃げればいいのか、兄さんは最後まで言わなかった。ただ、逃げろと。そう言っただけ。
だからあたしはその通りにした。
兄さんの言った通りに、走った。
早く、早く……!
その後まもなくして、血と涙にまみれたあたしたちは、シティの警護兵に保護された。
あたしは共同公園で起こったことを断片的に、口早にまくしたてた。そのときはまだ、彼らに兄さんを助けてもらうことができるかもしれないと思っていたから。だけど実際は、そうではなかった。何人かの警護兵が共同公園まで確認に行ったときに、建物の中にいた人間は全員が死んでいるという連絡をしてきている。あたしも、兄さんの遺体の確認をしている。それは、事実として認めなければならない。あたしも、リックも。もちろん父さんも母さんも。
汚れた格好のままであたしたちは、両親が迎えに来るのを待たなければならなかった。
真っ先にやってきたのは、ニンの両親だった。おじさんとおばさんは、大泣きに泣きながら、ニンが無事だったのを喜びあっていた。
それからうちの両親が、夕方、日の暮れかかったころにやってきた。リックは母さんの姿を目にした瞬間、それまでこらえていた緊張が緩んだのか、激しく泣き出した。父さんは、あたしたちのいた部屋とは別の部屋に呼ばれた。兄さんのことは、あたしの話を最後まで聞いてくれた兵士から、告げられたらしい。あたしはただ、ぼんやりと、その風景を眺めていた。
クライシュのところは、誰も来なかった。
「あんたのところ、どうしたの?」
両親に連れられて帰る間際、あたしは、クライシュに尋ねた。
窓の外はいつのまにか真っ暗になっていた。
「うちは、母親しかいないんだ。だから多分、迎えには来ない」
なんで、とは、尋ねられなかった。クライシュの母さんは、働きに出ているのだということがわかったから。
両親が揃ってない家族がシティで生活するのは、かなり難しいことだということは知っていた。両親のうちどちらかが死んだりいなくなったりしたら、その家族はたいていシティから出ていく。片親の働きでは、シティで生活するだけのクレディットを得ることができなくなるからだ。
だから多分じゃなくて、絶対に、クライシュの母さんは、クライシュを迎えに来ることはない。クライシュを迎えに来る時間分のクレディットだけ損をすることになるから。
でも、あたしだって充分に可哀想だ。
兄さんとはもう二度と、会うことはできないのだから。
父さんは難しい顔をしていた。「帰るぞ」と、その一言だけで、あとはなんにも喋らない。リックの手を引いた母さんは、散々泣き腫らして目を真っ赤にしていた。
あたしはというと、心の感覚がマヒしていた。
兄さんのいない世界は、なんて冷たいんだろう。
寒くて、寒くて……心が凍りそう。
守ってあげられると思っていたあたしが、どうかしていた? あたしの力なんて、ちっぽけで、とてもひ弱なものでしかないということがわかったぐらいだもの。
あたしたち四人は、部屋に戻るまで黙ったままだった。
集合住宅区は、なんの変哲もない四角いビルが並んでいるだけで、AからHまであるビルのE棟にあたしたちは住んでいた。E棟の入口を入ってすぐのところから、簡易リフトで二十三階に上がる。二十三階の一番右端が、あたしたち家族の部屋だ。部屋はちっぽけで、キッチンとリビング、それに父さんの書斎を除くと、寝室は三部屋しか残らない。もちろん、両親の寝室、兄さんの寝室、あたしとリックの共有の寝室、という割り当て。
食事を取る気にもなれず、それでも、リックがお腹が空いたと言うから、あたしたちは軽くパンとチーズとハムとを胃袋に押し込んだ。それから、野菜の入ったシチュー。
母さんは目に見えて食欲がなさそうだった。
なのに、こんなときでもあたしの食欲は健在だというのは、少しばかり驚きだった。
「テオドアの部屋はあのままにしておくぞ」
食事を終えて、そそくさと部屋に戻るときになって、父さんがそう切り出した。
兄さんの想い出をそのままにしておくつもりなのだろう。
「うん」
あたしは頷いた。
別に、構わない。
あたしは今のままで充分。
それに、兄さんの部屋があのままだと、兄さんがいつか、ひょっこり帰ってきそうで。心のどこかでまだ、兄さんが生きていると思っているあたしには、必要なことだった。あたしだけじゃなく、父さんも母さんも、リックも、必要だと思う。
だってあたしたち家族は、まだ心の底で、兄さんが生きていると信じているから。
リックと共有している部屋に戻ったあたしは、ぼんやりとしている。
ベッドに寝そべって、天井のしみを数えている。
リックは部屋に戻ってくると、さっさと眠ってしまった。今日一日、あまりにもいろいろなことがありすぎて、疲れたのだろう。
あたしも、そう。
あんまり疲れてしまって、心がマヒしている。
兄さんが死んでしまったことを、素直に悲しむことができないでいる。
あたしにはペアがいないんだ。もう、あたしの心を理解してくれる人はどこにもいない。どこにも。兄さんは、死んでしまったのだから。
ペア・チャイルドは二人一組が原則。あたしはもう、一人なんだ。心を理解してくれる人は、いないんだ。
その日の明け方。
夢の中で兄さんと会った。
兄さんは怪我なんてどこにもしていなくて、いつものようににこやかに笑っていた。
「ウェンディ、僕らはまだ、ペアでいられるかな?」
兄さんの優しい口調。
「ええ。あたしたち、ペアよ。ずっと」
兄さんが生きているあいだは、ね。
あたしは答えながら、兄さんはもう、死んでしまったのだと、自分に言い聞かせていた。 「ずっとじゃないよ」
兄さんが言った。
「そうね。兄さん、死んでしまったものね」
言い方が嫌味っぽくなってしまったのは、あたしを置いて死んでしまった兄さんへのあてこすり。
「そうじゃなくて」
困ったような眼差しで兄さんは、あたしを見つめる。
「だって、ペアの条件は二人一組よ」
能力級にかかわらず、例外というのもあったけれど、あたしが知っているペアはすべて二人一組。話に聞いただけなら、三人一組というのも存在するらしいけれど。
「……ディが本当のペアを見つけるまでは、一緒にいてやるよ」
と、兄さんは微笑んだ。
どうやって?
尋ねようとしたところで、不意に目が覚めた。
その日からペアを捜している。あたしの、あたしだけの、ペア。もう一度、あたしの心が誰かの心に同化するなんて、そんなことがありえるのかどうかもわからなかったけれど。
か半分だけの心では、あたしはとても不完全だから。
だから、あたしのことはディと呼んで。
あたしがあたしになる日までは。
どうか──ディと、呼んで。
END
(H8.5.27)
(H13.12.20改稿)
(H24.9.23再改稿)
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