夏休みに入ったばかりの学校は、普段よりも生徒の数が少ない。
日差しの強い屋上で、あたしは初めてのキスをした。
「……くらくらしそう」
と、あたしは囁いた。
相手は夏樹だった。
あたしと同じ顔、同じ眼差し。同じ遺伝子の持ち主。
あたしたちは双子で、姉と弟で、そして……これからは、同じ一つの個体でもある。
あたしは自分の額を夏樹の額にくっつけたまま、尋ねた。
「これであたしたち、本当に一つになれるかな?」
あたしは、夏樹と一つになりたかった。それは、まだ母親のお腹にいた頃からの、夏樹の十六年来の願いでもある。
偶然にもあたしたちは双子として産まれてきてしまったけれども、本当は望んでなどいなかった。あたしも夏樹も、同じ一つの個体として、一人の人間として産まれてきたかったのだ。
「なんだ美夏、そんなこと考えてたのか?」
と、夏樹。
炎天下で額をくっつけているのは、それだけで暑苦しい。二人とも額にはじんわりと汗が滲んでいて、夏樹の身体からは最近吸い始めたメンソールの煙草ほのかなにおいが漂っている。
「じゃあ、夏樹はナニ考えてたの?」
あたしが尋ねると。
夏樹はにやりと薄笑いを浮かべて、言った。
「……来週の今ごろは、セックスしてるかもしれないな、って」
あたしは何も言わずに夏樹の胸にしがみついた。
それこそあたしの望むところだ。
あたしは、夏樹と一つになりたかった。産まれるよりも以前、あたしたちが一つの受精卵だか何かだった頃の、穏やかであたたかな世界にもう一度戻りたい……。
夏樹の体臭を鼻腔の中いっぱいに吸い込むとあたしは、顔を上げて軽く彼の唇をついばんだ。
夏樹のことが気になりだしたのは、小学校の五年ぐらい……かしら?
最初、それは嫉妬の入り混じったどす黒い悪意だった。
当時のあたしたちは、お互いに相手を嫌っていた。同じ顔、同じ背丈、同じ声。一人としてあたしたちを見分けられない中にいたあたしたちは、もがき苦しんでいた。
周囲の人たちに自分自身を見て欲しかった。そう思いながらも、一緒くたにされることに慣れてしまった自分をも、嫌悪していた。
あたしは自分になりたかった。
揺るぎなく立ち尽くす、一本の大木のように。
あたしはあたしなのだと、声を大にして叫びたかった。
そうすることであたしは、自分自身のことを、美夏という一人の人間のことを周囲に認めてもらえるのではないかと思っていたのだ。
あたしは次第に内にこもりがちになっていった。学校にいる時は友人たちと他愛ない馬鹿話をして騒ぎ、家に帰ると部屋に閉じこもり、鬱々と一人で考えた。あれこれと、つまらないことを。
そんなあたしとは反対に夏樹は、外の世界へと救いを求めた。あたしのことを知らない人たちと付き合うことで、夏樹は自分自身を確立していった。
中学校は別々のところへ進んだ。
あたしは公立の中学へ。夏樹は、私立のやはり共学校に進学した。
あたしたちはその頃、口もきかないほど険悪な仲になっていた。あたしは夏樹が死んでしまえばいいと思っていたし、夏樹は夏樹できっとあたしが死ねばいいと思っていたはず。
あたしたちの絆は、切っても切れない憎しみの色に撚り合わされていった。
あたしは……双子の片割れではなくて、美夏という一人の人間として、皆に扱ってもらいたかった。ただそれだけ。夏樹も然り。
いつしかその思いは、あたしたちが二人だからいけないのだという考えにすりかわっていく──
一人にならなきゃ。あたしは、一人になりたかった。双子の美夏ではなくて、一人っ子の美夏になりたいと思い始めたのだ。
そうすれば皆は、あたし一人を、あたしだけを見つめてくれる。あたしだけに話しかけ、あたしだけに意見を求め、一緒に遊ぼうと誘ってくれる。
一人っ子。なんていい響きの言葉。
一人っ子、一人っ子、一人っ子。
あたしは。
自分の考えが偏ったものだということを知りながら、夏樹にそのことを話した。
夏樹はあたしの話に黙って最後まで耳を傾けてくれた。
あとは、あたしたち二人のうちのどちらが生き残るか、ということが問題だった。
あたしたちは揃って同じ高校へ進学した。
両親を始めとする親しい人たちには、心境の変化だと言っておいた。
本当は、そうじゃない。
あたしたちは、同じ一つの個体になるため、一つの目標に向かって動き出しただけのこと。
一つになるため。
すべては一人の美夏(あるいは一人の夏樹)になるための、前哨戦なのだ。
あたしたちは皆に見せつけた。双子がどれほど仲がよくて、固い絆で結ばれているかを。これ以上はないというほど甘い甘い二人の時間を見せつけておいて、二人の絆の強さを皆に信じ込ませた。 あたしたちにしてみれば単なるゲームでしかないというのに。
そう。
これは、あたしたちが一つの個体になるための、いわば試練。
あたしがあたしになるための。そして夏樹が夏樹になるための、たった一つの方法。
こうして世間を欺いておいて、それから、何もかもを覆す。
──どういう方法で?
もちろん、決まっている。
飛び降りるのだ。どこかから。
たとえば、学校。勇気のあるほうが学校の屋上から飛び降りる。それだけ。
残されたほうは、死んだほうの記憶を引きずり、双子の片割れという肩書きに苦しみながら、生きていかなければならない。
このゲームでは、死んだほうが勝者なのだ。
死んで、完全な一つの個体になる。それこそが、あたしが、そして夏樹が産まれてくる前から求めていた、たった一つの真実。たった一つの、願い。
そうして。
あたしは今日、学校の屋上から飛び降りる。
それだけを支えにして、あたしは今日まで生きてきたのだ。
そうしなければ、あたしはとっくの昔に壊れていただろう。
夏樹と二人して屋上に上がったあたしは、初めてのキスを彼にねだった。
一つになるため。
夏樹が生きている間は片時たりとも、あたしのことを忘れないように。美夏という双子の姉が存在していたのだという事実を、あたしは夏樹の記憶に植え付けてやるのだ。
あたしの頼みを夏樹は聞き入れてくれた。
あたしと同じ顔の、夏樹。夏樹の節くれだった大きな手があたしの頬を包む。小学校の時にはまるで鏡に映ったようにそっくり同じだった夏樹は、いつの間にかあたしよりたくましい、一人の男の子になっていた。
「美夏、目ぇ閉じろよ」
ぶっきらぼうに、だけど宥めるように夏樹は、あたしの髪を梳いてくれる。
女慣れしているように思えるのは、中学時代に夏樹があちこちで遊びまわっていたからかしら?
あたしが目を閉じると同時に、夏樹の唇があたしの唇を塞いだ。
その刹那、不思議な一体感があたしの中で生まれる。
あたしたちはたった今、一つになっているのだ。繋がっている。産まれる前からの願望だった、一つの個体になりたいという望みが叶ったのだ。一時的ではあるけれども。
「これであたしたち、本当に一つになれるかな?」
夏樹の唇が離れると同時にあたしは、そう尋ねた。
彼の唇は、あたしのものだ。声も、手も、指先も、それからあのたくましい身体のパーツすべてが、このあたしのものでもあるのだ。一つになりたかったあたしの、残りのパーツ。
あたしたちはしばらく屋上にいた。
容赦なく照りつける殺人的な日差しと、時折、思い出したように吹いてくる生温かい微風の中で、何度もキスを繰り返した。
その後、夏樹はあたしの身体から身を離すと、掠れた声でこう言った。
「そろそろ帰ろうぜ、美夏」
夏樹はあたしの手をとり、踊り場へと続く出入口のほうへ歩き出した。
とうとうその時がやってきたのだ。
あたしが、美夏という名のたった一人の人間になる瞬間が。
あたしは夏樹の手の中から自分の手をするりと引き抜いた。
「バイバイ、夏樹」
そう告げてあたしは。
屋上のフェンスに駆け寄る。
日に焼けて熱くなった金網をよじ登り……そのまま、宙へ身を投げ出した。
降下する感覚に、あたしは軽いめまいを感じる。重力に引き寄せられ、あたしは、地面へと落ちていく。風が頬を撫でる。優しく、強く。まるで天使のようにあたしは飛んでいた。制服のスカートのひだがひらひらと舞う。目を閉じると急速的にそこは暗闇の世界に変わり、それから…それから、それから、それから……翼を無くしたイカロスのように、あたしは落下していった──
目が覚めると、見知らぬ白い天井が頭の上に広がっていた。
あたしはたくさんのチューブやら点滴の管に繋がれて、ベッドに横たわっていた。
ふと見ると白衣を着た夏樹が青白いやつれた顔でベッドの傍らに立っていた。
「あの高さから落ちて助かるなんて、なかなかの強運だってさ。担当の先生が言ってたぜ」
しわがれ、疲れの滲んだ声で彼は言った。
あたしは言葉を返すことが出来ない。プラスチックのマスクのようなものが口を覆っていて、くぐもった呻き声しか出ないのだ。手を動かしてマスクを外そうと思ったが、それも出来なかった。全身が気だるく、少しばかり痺れたような感じがしていた。
「あんまり馬鹿なことすんなよ、お前」
と、夏樹。
あたしは夏樹の目をじっと見つめた。
夏樹は黙ってあたしの目を見つめ返し、それからゆっくりと、唇をあたしの額に押し付けた。
キャスターのついたわけのわからない大きな機械が、規則正しくピッ、ピッ、ピッ、と音を立てている。静まり返った病室の中、あたしたちは……違う、訂正。あたしは、夏樹から盛大なキスの嵐を受け取った。
その日のうちに、酸素マスクと操り人形のようにあたしを繋いでいたチューブたちが外された。あの大きな機械もいつの間にか部屋からなくなっていた。きっと、そういったものを保管するための部屋のどこかへ戻されたのだろう。
ある程度あたしの容体が落ち着いてくると、両親は病室に顔を出す毎に遠回しながら今回のことに対する自分達の責任と義務を果たそうとした。つまり、嫌味やお小言、きついお叱りの言葉を、あたしに浴びせたのだ。あたしはそれらをうんざりしながら聞き流した。だいたいあたしがこうなったのは、双子で産まれてきたことに対する無言の抗議でもあったのだから。
あたしは最近、事故の後のリハビリをしながら、夏樹が病院に来てくれるのを待つのが日課となっている。意識が戻ってからの経過は良好で、驚くほどの早さで回復してきているということだった。きっと若いからだろうと担当の先生は言っていた。
夏休みが始まったばかりの学校の屋上から飛び降りたあたしは、一躍有名人になった。新聞やテレビのニュースでも取り上げられたらしい。八月の登校日には、名前も知らないような他のクラスの子までもがあたしのことを聞き出そうとしてか夏樹に話しかけたという話も聞いている。
あたしは「そんなの相手にするんじゃないわよ」と言った。夏樹は皮肉めいた笑みを浮かべてあたしにこう返した。「バーカ。俺はお前しか相手にしてねーよ」と。
憎み合っていたはずのあたしたちの関係は、いつの間にか修復されていた。
ううん、そうじゃない。
一方的にあたしのほうが夏樹を憎んでいただけ。それが真実。嫌われていることに気付いた夏樹は、ただあたしを避けていただけ。あたしが彼のことを、これ以上嫌いにならないように。
そうして。
あたしの中にあったどろどろとした夏樹に対する感情も、少しずつ形を変えていった。愛情という形に姿を変えたあたしの中の感情は、今や夏樹なしでは生きてはいけないほどになってしまっている。
そうこうするうちに二学期が始まった。
学校を終えた夏樹がお見舞いに来てくれるのを待ちながら、あたしは色々なことを考えている。大好きな夏樹に、どんな話をしようか、等など。
何年かぶりに接近したあたしたちの感情は、とどまることを知らないようだった。
それにね、あたし、気付いたの。一つになる方法は、他にもあるってことに。死ぬ以外の、もっと生産的でもっと官能的な手っ取り早い方法が。
それがどういう方法なのかは、誰にも教える気はないけれども、ね。
秋が過ぎ、冬が来て、あたしたちの日常はゆっくりと戻ってくる。
幸せな、二人だけの甘い日常が。
あたしは夏樹と腕を組み、恋人同士の睦言を交わす。
だってあたしたちは双子で、産まれてくる前には一つの同じ個体だったのだから当然だろう。何よりも、互いに相手のことを自分自身のように想っているのだもの。
「大好きよ、夏樹」
あたしはこっそりと耳打ちする。
信号待ちの群れの片隅で、あたしたちは軽いキスを交わす。
双子だから。
あたしたちは同じ一つのものだから。
「行こうぜ、美夏」
信号が青になった歩道を歩き出した夏樹はもう、あたしの手を離さない。固くしっかりと握り締めて、あたしと一緒に歩いていく。あたしもだ。夏樹の指に二度と離れないように自分の指を絡めて、ぎゅっと握りしめている。
だってあたしたちは、産まれる前には同じ一つの個体だった、双子だから。
見上げた空は青くて一瞬、あの夏の日を思わせたけれど、そこには冷たい風が吹いていて、あたしは夏樹のあたたかな体温を求めてピタリと体を寄せたのだった。
END
(H13.8.12)
(H24.10.21改稿)
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