砂の道標

<プロローグ>

  酒場での待ち合わせなど止めておけばよかったと後悔の念に捕らわれながらも、テランは、麦酒を一息に飲み干す。
  いくらここが治安のよい<光の街(ルグオ)>といえども、通り一つ横にそれただけで人相の悪い男たちや疲れた顔の女たちや、悪餓鬼どもの世界になる。この通りに暮らす者は、力だけが生きることのすべてだと考えている連中ばかりだと、テランはいつも思っている。
  華やかな街の影で、継ぎの当たった服を着る人々。裸足で道を歩く子どもたち。ゴミの臭いと、喧噪。働くことを忘れた男が昼間っから酒を飲み、夜の女が眠たげに乱れた髪を直す様は、見ていてあまり気分のいいものではない。
  彼が居座っているこの酒場は、昼時ということもあってかなりの人間がおり、出入りも激しかった。
  テランが何気なく顔を上げて入口のほうへと目をやると、ドアが開き、人が入ってくるところだった。
  入ってきたのは、黒髪の男。
  彼はテランのテーブルにやってくると、無言で席に着いた。
「一人なのか?」
  訊いたのはテランだ。どこか咎めるような口調を、黒髪の男は軽く肩を竦めてやり過ごす。
「この場所を指定したのは誰だった?」
  そう言って男はテランを流し見た。
  酒場で会おうと約束を取り付けたのはテランのほうからだった。とにかく、何が何でも約束を取り付けなければならなかったのだ、あの時は。
「……来てないのか、あいつは」
  場所が悪かったか、それとも、良すぎたのか──あれこれ考えながら、テランは尋ねかけた。彼が本当に会いたかったのは、目の前にいるこの男ではない。この男はただの仲介役にしかすぎない。テランと彼女とのあいだに立ってくれさえすれば、それで充分なのだ。
「来てないはずがないだろう」
  溜め息と共に、男の声が洩れる。
「じゃあ、どこに……」
  言いかけたところへ、不意に、表で誰かが叫ぶ声が聞こえてきた。
「喧嘩だ……喧嘩だぞ!」
  そう言えば、店のすぐ表が騒がしいようにも思う。興味津々の野次馬共は、我先にと店の外へと飛び出していく。
  テランと男は無言のまま、店の外へと場を移した。考えなくても彼らには分かるような気がした。おそらく、喧嘩をしているうちの一人は、テランの待人でもあるだろうから。
「まったく、着いた早々に喧嘩とは……」
  ぼやきながらテランはドアを開ける。
  青年のほうは、何食わぬ顔で表へと出る。
  通りには野次馬の人だかりがすでに出来上がっていた。喧嘩をしているのはすこぶる筋肉の持ち主、普通の人の倍は背丈がありそうなほどの巨漢と、一見したところ華奢な様子の娘だった。
  喧嘩の原因は、男が、どこかの子どもに財布を擦られたことにある。彼が、財布を擦った子どもを折檻しようとしたところへ、彼女が割って入ってきた。擦られた財布は手元に戻ったのだから、子どもを放すようにと彼女は言った。男のほうはしかし、この時点ですっかり頭に血が昇りきっていた。何かに八つ当たりをしなければ収まらないほどに。
「その子をお放しなさい。まだ小さいのに、傷だらけになるまで殴るなんてどういう了見なのですか、貴方は」
  女は、朱色の更紗布を頭からすっぽりと被っていた。顔は見えない。
「……まずいな」
  黒髪の青年が小さく呟く。
  眉間に皺を寄せつつ、テランは、裏口へと回った。
「あんたには関係ないだろう」
  大男は肩をそびやかして言い放つと、脅しつけるようにして再び子どもに向かって手をあげた。
「おやめなさい」
  すかさず、女の手が、男の手をぴしゃりと打った。
「その子を放してあげなさい」
  女の厳しい命令口調に、男はむっとしたようだ。荒々しく子どもを突き飛ばすと、彼女のほうへと向き直る。
  女は、笑っていた。艶やかな微笑み。朱色の眼差しに毒々しいまでの嫌味を込めて。
「それとも……」
  挑発する口唇。
  子どもを庇う気もあったが、それ以上にこの大男との喧嘩を楽しむことを考えたら……。
「強きものよ。大いなる力よ、来たれ……フレイユ」
  女は、呪文を詠唱した。
  魔法使いが人を傷付けることは滅多にない。よほどのことがない限りは。そしてこれは、女が、一方的な魔法の行使を通して一般の人間を傷付けてはいけないという、魔法使いたちのあいだに伝わる公約を破ったという事実を示していた。
  女が魔法の言葉を唱え終えると同時に、黒髪の青年が彼女のほっそりとした手首を掴み上げ、その場を逃げ去るようにして離れて行く。
  野次馬たちは、巨漢の結末には然したる興味も示さなかったが、若い男女の行動にはわずかなりとも興味を持ったらしい。それぞれに言葉を交わしつつ、二人の後ろ姿を目線が追っていた。
  彼らがようやく例の男に目を向けると、彼は、地面へと頭から倒れこんでゆくところだった。



<1>

  <光の街>から寺院領へと続く街道は舗装され、踏み固められた石畳が続いていた。
  かつて寺院領は<光の街>の一部だったが、ほんの半世紀ばかり前に自治権を申請、現在は独立している。そして、寺院領への街道の途中には、宿が一つとしてないのもまた、周知の事実である。<光の街>の城下を早朝に出発すると、夕刻には寺院に着くことができる。どうしてもという急ぎの用がある者以外は、ほとんどが城下の宿で一晩を過ごしてから寺院へと向かう。或いは、馬を持っている者ならば、夜っぴいて馬を走らせるかもしれない。もっとも、夜のうちに街道を進もうとする豪気な人間は滅多にいなかった。いるとすれば、何か心にやましいものを持っている人間ぐらいだろう。
「まったく……あれほど無茶はやらかすなと言っていたのに」
  夕暮れ時の黄昏の中に若い男の声が響いた。
   夜の闇の色をした瞳が、女を軽く睨み付ける。が、彼女のほうは何食わぬ顔で野営の用意を始めていた。
「言っても無駄だと思うぜ、レシュオン」
  傍らの大木に馬を繋ぎ終えたテランが口を出してきた。
  レシュオンと呼ばれた青年は肩を竦め、諦めたような表情を作る。彼とて分かってはいたのだ。ただ、彼女がここまで気の短い人間だったとは思っていなかっただけで。
「自重してくれよ、頼むから」
  溜め息と共に言葉が洩れる。
  彼女の行動はたいてい、不可解なものが多かった。
  彼女──ラ・ルーナは、テラン、そしてレシュオンの、共通の友人だった。一時期、ルーナとテランは土の老人と呼ばれる魔法使いに師事していた。そういった意味合いではレシュオンとテランの付き合いはまた少し違ったものだったが、それでも、二人はラ・ルーナを間に、仲間意識を持っている。おそらくそれは、ルーナがいなければ成り立つことはなかったものではないのだろうか。
「ルナ、大丈夫なのか」
  焚き火の用意を手伝いながらレシュオンが問う。
「何がですか」
  素知らぬ振りをしているのか、ラ・ルーナは冷たく彼をあしらった。
「まだ、話すことはできませんが……近いうちに必ず、私の決心がつき次第、お話しします」
  暗がりにラ・ルーナの影が落ちる。
  レシュオンもテランも、彼女の表情を見ることはできなかった。



  寺院領の一室に薄暗い灯りが点る。
  ラ・ルーナとテランの姿が、そこにはあった。
  朱色の更紗布に身を包んだラ・ルーナは、目の前の青年のほうへと手を伸ばした。
  ゆっくりとした優雅な動きが、酷く艶かしい。
「我ラ・ルーナの名に於いて、汝ミアイラ・ファ・テランに炎の精霊の力を授けん」
  低い女の声が室内を満たす。
  心地好い響き。
  ラ・ルーナの艶やかな笑みに誘われるように、テランも口許に淡い笑みを浮かべた。
「精霊よ……」
  ルーナの声は尚も続いている。
  淡々とした口調だが、気に障ることはない。それどころか、この声をずっと聞いていることができれば、と思ってしまうほどだ。
「力を貸したまえ精霊の中の王よ」
  もし自分が精霊なら、喜んで彼女の力になるだろう。そんなことを考えながらテランは、ラ・ルーナの言葉を口の中で反芻してみる。この呪文が精霊を召喚する呪文の中でも最上級のものだということが分かる人間は、滅多にはいまい。
  失った力が再び、テランの身体に流れ込んでくる。
  あたたかな潮流。
  過去に無くした力を、一時的にでも取り戻すことができるとは思ってもいなかった。
  テランの失った力とは、御魂使いとしての魔力。
  精霊に選ばれた者だけが持つことのできる、特別な力。
  テランは目を瞑り、彼女の声に聞き入った──



<2>

  レシュオンは一人だった。
  いや、一人ではない。
  正確には二人、だった。
  かつてレシュオンは、二人だった。
  彼の半身は、彼を鏡に映し出した如く、まさにそっくりだった。
  半身は名を、レシュナンと言った。
  黒い髪。黒い瞳。物静かで、穏やかで。誰に対しても優しい、レシュナン。
  レシュナンを昼とすれば、レシュオンは夜。
  姿形は同じでも、レシュオンは、レシュナンではなかったから。レシュナンのように光の中を、優しい人々に囲まれて生きることはできなかった。
  レシュオンには寡黙と孤独がついて回った。
  いつ、いかなる場所にいても彼は、もう一人の自分──レシュナン──を、意識せざるを得なかった。
  その二人の位置が、微妙にすり替わってしまったのはいったいいつのころからか。
  レシュナンは力を求めるあまり、光の世界から闇の世界へとその身を墜としたのだ。
  知っているのはレシュオンだけ。
  他には誰も、知らなかった。
  いや、気付かなかった。
  人々は、過去の優しかったレシュナンの上面に騙されていた。おそらくは誰も、レシュナンが心の奥底では力を求めているとは……強く、邪悪な力を求めているとは、思ってもいなかっただろう。
  そして、レシュオンには、行き場がなかった。彼にとってレシュナンは、昼の光そのもの。道を照らし、導く者だった。レシュナンを信じることが、彼にとっては生きることにも等しかったのだ。盲目的に彼を信じ、付き従うことしかできなかった過去。
  レシュナンはレシュオン自身。
  レシュオンは、レシュナンそのもの。
  互いに相手の存在に溶け込んでゆき、いつしか、それぞれの自我を失ってしまっていたのかもしれない。
  もしかしたらレシュナンは、レシュオンだったのかもしれない。
  或いは初めは、レシュオンはレシュナンだったのかもしれない。
  互いに相手にのめり込みすぎたのだ。
  自分を見失ってしまうほどに。
  さらに、いつからか力を求め始めたレシュナンは、レシュオンを苦しめた。レシュナンが、自分自身しか見なくなっていたからだ。
  それは、酷く危険なこと。
  一つ間違えれば、相手を殺してしまうかもしれないほどに危うく、微妙な拘束。
  黒い髪、黒い瞳。
  まるで鏡に映したように。
  何もかも同じなのに、心の隔たりは大きい二人。
  それでもレシュオンは、たった一人きりの肉親であるレシュナンのためになら、何でもしてやるつもりでいた。
  だから……それだからこそ、レシュオンは、レシュナンの願いを聞き入れたのだ。
  レシュナンが昼の光の当たる場所で生きてゆけるのならば、レシュオンは、心から、何でもすると誓ったから。
  あの日。
  レシュナンが人を殺めたという事実を知った日から、レシュオンは、レシュナンの代わりに人を殺すことになった。
  永遠にレシュナンからは逃れられない。たとえ、レシュナンかレシュオンのどちらかが死んだとしても、それでも、レシュオンは彼に付き従うだろう。そうすることが彼の運命で、そうされることが、レシュナンにとっても当たり前のことだったから。
  望んでそうしていたわけではない。
  レシュオンはただ、レシュナンの心の安寧を求めただけ。
  そんな彼を誰が罰することができよう。
  レシュナンが殺した、もしくはこれから殺したいと思っている魔法使いたちは、皆、いくばくかの力と名を持っていた。彼は、殺した魔法使いたちから力を得ていた。魔法の力だ。レシュナンはもうずっと長いこと、力のある魔法使いたちは、力を使うための媒体となるものを持っていると信じていた。その媒体なるものを求めて、レシュナンは、何人もの魔法使いたちを殺し続けていた。実際には、魔法使いの力を奪い取り、自分のものにすることは不可能とされていたが、レシュナンにはその力があったようだった。
  いや、殺してきたのはレシュオンか。
  レシュナンのため。
  すべてはその一言に尽きる。
  それにレシュオンは、自らの半身から逃れようと思ったことは一度もなかった。そう考えること自体、彼にはありえないことでもあった。そのような考えを持ったなら最後。彼は、永遠にレシュナンから離れられなくなっていたことだろう。
  レシュオンは、人を殺すことに対しては大きな拒絶を示してきた。魔法使いとはいえども、人の生命をどうこうできるほどにレシュオンも、そしてレシュナンも、偉くはない。万物の命を操ることができるのは、自然と神だけなのだから。
  そうして。
  レシュナンはその後、神の意志によって、神の下に召された。



「彼を守ってあげて下さい」
  ラ・ルーナは穏やかな声でそう告げた。
  聖室の燭台に点された蝋燭の光が彼女の頬にちらちらと影を作った。
「分かっている」
  答えて、テランはラ・ルーナを見据える。彼女の頼みを無碍にできる人間がいるわけがない。彼女は、故シノエ老の一番弟子にして、比類なき御魂使いなのだから。それに、確かな証拠はないが、彼女はシノエ老の孫娘かもしれないのだ。
「分かってるさ。あの子が御魂使いになれるよう、手助けしてやればいいんだろう」
  その通りだと言うかのように頷いて、ルーナは口許に軽く笑みを浮かべた。
  テランは、どこか気に入らなさそうな様子をしている。
  つい今しがた新たな魔法の力を得た彼は、どうやら、自らに課せられた代償が気に入らないようだ。ラ・ルーナに返す言葉もどこかつっけんどんで、彼の機嫌が悪いのは誰が見ても明らかだった。
「そうです。手を貸してあげて下さい。あの子が、御魂使いになれるように。シノエ老の、最後の弟子として名を馳せることができるように」
  いったい今、彼女は、何を考えているのだろうか。
  ふと、テランの脳裏を疑問が掠める。
  彼女は何故、一度も会ったことのないはずの少年をこれほどまでに気にかけているのだろうか。
  いや、考えるのは後回しだ。
  今は手に入れた力のことを考えることのほうが大切だ。
  忘れかけていた、魔法の力。ちょっとした小さな過ちから、永遠に失ってしまった精霊。彼の守護精霊は、消滅してしまった。彼一人を残して。それなのに、もう二度と戻ってくることはないと思っていた懐かしい感覚が、テランの身体の中で今、燻りかけていた。



<3>

  寺院領の西の海岸沿いには小さな港があった。そこから<石の街(ムオゼコ・ワーフ)>へと向けて定期船が出ている。
  ラ・ルーナたち三人は、運よく出港間際に乗船することができた。運よく、というのは、これに乗りはぐれた者は、後しばらく……おそらく船が戻ってくるまで三日か四日、波の状態によっては最悪で十日ほど、<光の街>に足止めを食らうことになるからだ。
  <石の街>で下船したのは、ラ・ルーナとテランの二人だけだった。
「……<砂の街(ツベトァ)>で待っている」
  別れ際、甲板の上からレシュオンはラ・ルーナにそう言った。
「ええ」
  地上に降り立ったラ・ルーナの表情は固く、厳しい。
「ええ、もちろん分かっています。ここでの用がすんだら、すぐに貴方を追いますから」
「そうしてくれ。こっちも、下準備のほうはできるだけ終わらせるようにしておく」
  テラン一人だけが話についてゆくことができず、むっとしている。除け者にされるのは、誰だって嫌なはずだ。それでなくとも彼は、寺院領を出るころから機嫌が悪かった。今なら、どんな些細なことでも逆上することができるかもしれない。
「ルナ、そろそろ行かないと」
  抑えた声が喉につっかえる。
  ラ・ルーナは振り返ると艶やかに微笑んだ。
「今、行きます」
  潮風が、彼女の更紗布を激しくなぶっていった。鮮やかな朱の色があたりにさぁっ、と広がる。
  まるで、テランの胸の内の鬱々とした思いを嘲るかのようだ。
「少し急がなくてはなりませんね」
  そう言いながら、彼女は馬に跨る。
  馬上で一度、ルーナは後方を振り返った。出港前の船の甲板に、黒髪の男が立ち尽くしている。レシュオンだ。
  口唇が微かに動くのが遠目に見えた。
「必ず、来い」
  レシュオンの声が、ルーナの耳元で聞こえたような気が、した。



  布教所は、僧侶をはじめ、あらゆる魔法使いたちのために開かれた場所でもある。もちろん、人々に寺院の教えを広めるために設置された、公共の場でもあるのだが。
  <石の街>の街に入ったルーナとテランは、まず初めに布教所を訪れた。行動の基点となる場所を求めて。彼らは、<石の街>最大、いや、このルグォス最大の魔法学校で御魂使いの修行をしているルキアという少年を見守るため、ここ、<石の街>を訪れた。
  街は、明日から行われる収穫祭の支度で沸き立っていた。
  露店で賑わう大きな通りを何度か折れる。入り組んだ袋小路の奥に建てられた、恐ろしく小さな建物の扉に手をかけたのは、テランのほうだった。扉を開け、人の気配がないのを確かめてから、ルーナに目配せをして、中へ入るようにと促す。
  足音もなく、ラ・ルーナは扉の内側へと足を踏み出した。
  質素な作りの布教所を訪れる人は、あまり多くはないらしい。
  特に今日などは、夕方から前夜祭が開かれるため、こんな物寂しいところへ来ようと思う人間など滅多にいないはずだ。
  すっかり人のいなくなった布教所は、打ち捨てられた小屋のようだ。
「都合よく出払ってるようだな、ここの人間は」
  とは、テラン。
  が、ラ・ルーナは彼の言葉を無視した。
「あの子の様子を見てきて下さい、テラン」
  彼女の表情からすると、心配しているというわけでもなさそうだ。与えられた義務の一つとして、彼女自身が成すべきことをやっているといった感じがしないでもない。
「様子を見てくるだけでいいのか?」
「くどくはありませんか、テラン」
  ぴしゃりとルーナは言い返した。
  自分のやることにいちいち口出しされることを、彼女は酷く嫌っていた。昔からずっと、そうだ。
「収穫祭が終わったら、あの子の様子を聞きに来ます」
「聞きに来ます?」
「ええ、そうです。しばらく一人でいたいのです」
  不可思議な笑み。
  嫌とは言い難い、無言の圧力。
  テランは、頷いた。渋々ながら。
  ラ・ルーナを一人にしておくことはためらわれたが、彼女を怒らせることはそれ以上にためらわれた。後々になって何を言われるか、分かったものではない。
「じゃあ、収穫祭が終わるまではここには戻って来ないんだな」
  テランの念押しの言葉に頷き、それから、彼女は背を向けた。
「近くに宿を取ります。送って下さい」



  ほんの一瞬のできごとだった。
  ぶつかってきたのは、彼のほうからではない。
  わざと自分から、向こうからぶつかったように見せかけるために、身体のバランスを崩したのだ。
  彼は気付いていない。
  ラ・ルーナがこれを仕組んだのだとは。
  彼女がぶつかったのは、銀髪の少年。鮮やかな青蒼色の瞳は大きく見開かれた双つのサファイア。他人と言葉を交わすときにはどこか恥ずかしそうにわずかに俯いて、喋る。あっというまに赤面する顔。表情は、よく変わる。驚いたりほっとしたり、笑ったり。
「ご、ごめんなさいっ」
  ぶつかった瞬間、少年の謝罪の声は上ずっていた。
  青蒼い眼。
  真直ぐにラ・ルーナを見つめている。
「いいえ。こちらこそぼんやりしていましたから」
  ごめんなさいと言って、ルーナは目を伏せた。
「何やってるんだよ、ルキア」
  後方から──少年にしてみれば前方のほうになるのだが──友人の声がかかる。
「ごめん、ちょっと……」
  離れてゆく少年の声は、高く澄んでいる。
  少年に背を向けたルーナはゆっくりとその場を歩み去る。
  心の中で、誰かが喋っていた。大丈夫だ、と。   何もかも、うまくいくだろう──



  布教所のドアを開けた途端、鋭い眼差しがラ・ルーナに注がれた。
「どういう風の吹き回しだ」
  一度こうと言ったことをルーナが撤回することは、ごく稀にしかない。収穫祭が終わるまではここで二人が顔を合わすことはないだろうとテランは思っていたのだが、ラ・ルーナはやってきた。
  いったい、どういうことなのか。
「気が変わっただけです」
  さらりと言ってのけるラ・ルーナ。
  テランには、彼女が何を考えているのかが分からない。
「……いえ、事態が急変した、とでも言っておきましょうか」
  そう言うと彼女はくすりと笑った。
  ラ・ルーナの笑みは、何故かテランに違和感を与える。彼女は他の人間とは違うのだという、奇妙な感じ。
「急変した?  どういうことだ」
  立ち尽くしたままのルーナは、テランに言った。
「あの子を脅かすものが現れたのは貴方も知っているはずですが……それが、どうやら本格的に動きだしたようです」
  そう言って、彼女はテランのほうへと歩み寄る。衣擦れの音が静かな布教所に囁きを投げかけた。
「私は……あの子が旧の力と対等に渡り合えるかどうかを、この目で確かめたくなりました」
  旧の力。
  それが、実際はどういったものなのか、テランは理解していない。ただ、彼女の言葉尻から捕らえたイメージとして、それは、古えの名残りを留めた精霊より低俗で、人間の心の隙につけこんでは悪事を働こうとする悪霊のようなものだと思っている。
  その旧の力に、ルキアという少年が狙われているのだ。
  ラ・ルーナはその少年を影から守るために、この<石の街>にやってきていた。実のところ、直接、少年を守るのはテランのほうだ。そのために彼は、寺院領でルーナから精霊の力を借り受けたのだから。
「奴は、すぐ近くにいるのか」
  テランが尋ねかけたところで、ドアが勢いよく開いた。
  二人の少年が飛び込んできた。
「──ミアイラ」
   驚きと安堵の入り交じった、小さな、掠れた囁き声。テランはこの少年を知っている。魔法学校の生徒の一人だ。
  そしてもう一人は……ルキアだった。
「どうかしたのか」
  と、テラン。
  少年は息を切らしており、肩で息をしていた。ここまで走ってきたのだろうか。
「……追いかけてきたんだ、あいつが」
  ドレイナが苛々と言葉にする。
「あいつ?」
「そうだよ、あいつだよ。あいつは、もう、そこまで来ているんだ!」
  悲痛な声でルキアは続けた。
  自分たちが置かれている状況をなかなか理解しようとしてくれないテランに対して、癇癪を起こしかけている。
  テランがラ・ルーナのほうへちらりと目を馳せると、彼女のほうから目配せが返ってきた。気を付けろと。しかし、何に対して。旧の力が狙っているのはルキアで、テランは守るほうなのだ。気を付けることなど、何もないではないか。
「ドナ、後ろ!」
  ルキアが叫んだ。
  その声で初めて、テランは気付く。
  彼ら二人の後ろに存在している、あの、白濁した青い影。あれが、旧の力と呼ばれるものなのだと。
  いや、影ではない。
  あれは、人の貌を取ろうとしている。透き通った、不安定な──幻影。
  幻影はドレイナに襲いかかり、青く濁った靄で彼をすっぽりと包み込んでしまった。テランがそれを助けにかかる。靄の中へ飛び込むと、口や鼻の中に悪臭のする、ゼリー状のものが入ってきた。呼吸が思うようにできない。
  しばらく靄と格闘していると、ラ・ルーナの呪文を詠唱する声が聞こえてきた。
「強きものよ……大いなる力よ、来たれ──シェラル」
  低い、しかし張りのある声が響く。
  強い風が靄の表側を切り裂こうとする。旧の力は自分の身を守るため、ドレイナとテランの二人を諦めた。窒息しそうな青い靄から解き放たれたテランは勢い咳き込んだ。ドレイナのほうは、気を失っていた。
「ドナ、しっかり──!」
  駆け寄るルキアの足下へ靄が流れてゆくのに、テランは気付かなかった。



<4>

  靄が完全に少年を捕らえてしまうまでには、時間はそうかからなかった。
  助け出そうと行動を起こしかけたテランを遮ったのは、微かに震えた少年の声だった。
「水竜……」
  風のように静かに、優しい声。
  御魂使いが自らの守護精霊を呼び出すときには、純粋な心を保っていなければならない。そのことを理解している魔法使いはいったい、このルグォスに何人ぐらいいるのだろうか。
  御魂使いとは、ある特定の一個体の精霊と同等の立場で契約を交わした魔法使いのことを指すと一般には言われているが、実際はそうではない。正しくは精霊に選ばれた者が御魂使いと呼ばれてしかるべきなのだ。彼らはまた、純粋無垢な、強い心を持っていなければならない。
「怖くはないよ」
  呟いた少年の、それまで閉じていた瞳がゆっくりと開かれる。
  鮮やかな青蒼。
  真直ぐに、旧の力だけを見つめている。
  それから──少年の守護精霊でもある水竜が、彼の痩せた指先からほとばしり出た。
  鮮やかな青蒼色の竜が、旧の力の中心を突き破って暴れる。
  たまらず、旧の力は少年からするりと離れた。そこへ水竜が大口を開けて飛びかかってくる。あたりに、低く耳障りな呻き声が広がった。
  テランが見ているうちに水竜は青い靄を残らず飲み尽くしてしまった。
  閃光が走る。
  少年の瞳の色と同じ、青蒼色。
  テランには、自分にはないものを持つルキアが、酷く羨ましく感じられた。



「手を出したくて仕方がない、って表情してたぜ」
  静まり返った夜の布教所には、やはり、テランとラ・ルーナの二人しかいない。
  ラ・ルーナは小さく笑うと、青年を流し見た。
「<砂の街>へ行きます。あの子の力がどれほどのものか確かめることができてよかったと思っています。後を、頼みますね」
  彼女の言葉に頷き、テランも苦い笑みを返した。
  彼女が<砂の街>へ行くのは、自らのためだ。<石の街>の西にある、太陽と砂漠の街。
「──いいのか、本当に?」
「何がですか?」
  ラ・ルーナはあっさりと、テランの問いをはぐらかす。
「訊かせてくれ」
  と、テラン。
  酷く真面目な面持ちで、彼はルナを見つめた。
「あの子のために、お前は捨て石になる気なのか」



<エピローグ>

  <砂の街>の昼間の風は乾燥していて、肌をも焦がすほど暑い。
  夕闇が降りてきて涼しくなった街の中をラ・ルーナは歩いた。
  街外れに設置された公共の古びた施設には小さな祭壇が置いてあり、何か祀りごとがあるときには寺院の僧侶が来ては説教をしていった。また、この街には施設とは別に、こぢんまりとした、しかし、かなり豪華な造りの寺院もあった。
  ラ・ルーナがレシュオンと会うために選んだ場所は、施設のほうだった。
  何十年という長い年月を経た祭壇はところどころに黴が生えていたり、染み跡がついていたりした。施設自体が古く、あちこちに継ぎや雨漏りの跡が残っている。
「いいのか、ラ・ルーナ」
  レシュオンは祭壇に立ち尽くしていた。曲刀を手に、恐ろしいほどに厳しい顔をしている。
  ラ・ルーナは何も応えなかった。頭から被った朱色の更紗布が風もないのに揺れただけで。
「一つだけ、訊きたいことがある」
  レシュオンの声は緊張していた。
「何なりと」
  ルナは笑って促す。にこやかな彼女の態度は、難しい表情のレシュオンとは対照的だ。
「……土の老人が亡くなられた今、貴女がシノエ老の意志を継いで長老会に参入するのが当然のことかと思うのだが……できるのか、貴女に」
  沈黙しか、なかった。
「貴女にはそれができるのか、ラ・ルーナ」



  ルーナは笑っていた。
「できないでしょうね」
  こともなげにそう告げると、彼女はレシュオンが手にした曲刀へと目を落とした。
「ですから貴方に、その刀を持っていてほしいと言ったのではないですか」
  何の飾り気もない黒塗の鞘は、三日月のように華奢で、ゆるやかなカーブを描いている。だが、刃のほうの切れ味はどの剣にも勝るとも劣らずの鋭利さを持っている。
「何故だ?」
  レシュオンの声は押さえられてはいるものの、鋭い。わずかながら怒気を含んでもいるようだ。
「その刀は、使い手の魔力を高める力を持っている。さらには精霊たちを惹きつけ、協力させる力をも持っているのです。だから私は、その刀の影響が使い手に及ぼす作用を見極めようとしただけです」
「これを、あの子に持たせるつもりなのか」
  剣呑な口調。
「──いいえ」
  きっぱりと、ルーナは言い切った。
  レシュオンはまだ、どこか不安そうだった。
  ラ・ルーナの真意がはっきりとしない以上、彼が刀を譲り渡すようなことはしないはずだ。
「時が来れば……或いは、あの子が欲すれば、黙って譲るつもりです」
  ラ・ルーナは静かに歩み寄った。
  音もなく跪くと、彼女は曲刀へと手を伸ばす。
  愛しげにルーナは微笑んだ。
  黒光りのする鞘に、ラ・ルーナの笑みが映し出される。朱色の瞳がじっと、自分自身を見つめ返していた。
「これは、私のものですから」
  曲刀から、レシュオンの指が離れる。
  ラ・ルーナは刀を両手で受け取ると、鞘の中程に口付けた。
  レシュオンは何も言わず……もう、彼には、何も言うことはできなかった。刀は彼の手を離れ、ラ・ルーナに受け渡されたのだ。そしてその後、ラ・ルーナが選ぶ誰かの手に渡り、刀は、受け継がれてゆくはずだ。
  刀は常に、使い手を欲していた。
  優れた使い手の元でこそ、この曲刀は真の力を発揮することができるのだ。



  時は、満ちた。
  使い手の道は示された。
  新たなる、一人の御魂使いの少年のために──
                   



END
(H6.1.26)
(H24.1.14改稿)


Novel