小猫が公月に仕えるようになって、半月になる。
葎は滅多に屋敷には顔を出さない。
国境沿いで<菅ノ國>との小競り合いがいまだに続いているのが関係しているのだろうと、小猫は敢えて公月に何も尋ねようとはしなかった。
「上様がお呼びです」
不意に、薄紙を張った障子の向こうで声がした。
ざらりと掠れた、年老いた女の声。公月の乳母、延珠だ。
「は……はいっ、只今」
慌てて立ち上がったのが悪かったのか、小猫は着物の端を踏んでしまう。文机やら筆やらを畳の上に引っくり返してしまうのはいつものことだ。ガタガタという音は間違いなく延珠の耳にも届いているだろうに、この女官は何も言わずに障子の向こうでじっと小猫が姿を現すのを待っている。
「おやまあ、騒々しいこと。上様のお側仕えになるという方がそんなことで如何されますか」
延珠の優しい口調に、小猫はぺろりと舌を出し、肩を竦めた。
「すみません、延珠様」
と、小猫。
延珠は母のように穏やかな笑みを浮かべると、首を横に振って返した。
「時間をかけて覚えていけばよろしいのですよ」
小猫の母は田舎の女だからたおやかな女性ではなかったが、延珠のふとした瞬間の仕草や表情が、母を思い出させることがあった。
「はい、延珠様」
頷き、小猫は公月の待つ部屋へと足を向ける。
延珠は優しげな笑みを口元に浮かべたまま、まだ不慣れなことの多い小猫の後姿をじっと、眺めていた。
「上様、小猫です」
縁側の端で遠慮がちに小猫が声をかけると、足音もなく公月が部屋から姿を現した。
葎に似た大柄な男だが、穏やかそうな面立ちをしている。初対面の時には<碧ノ國>の国主というからもっと恐ろしい人かと小猫は思っていた。だが、国主という種類の人間の皆が皆、恐ろしい顔立ちの横暴な人間というわけでもないのだということを、初めて小猫は知った。
「呼びつけてすまないな、小猫」
と、公月。
小猫は無造作に首を横に振ると、公月を見上げる。その眼差しは、公月に付き従う者たちのような服従の眼差しではなく。
「そろそろ、返事をもらいたい」
小猫を警戒させないように、公月は静かに言った。
「あの……それは……」
困ったように小猫は口の中で呟き俯いた。
「まだ、決められないか?」
公月の口調は優しかったが、明らかに返事を要求している。
俯いたまま小猫は人差し指の第二間接をきゅっと噛み、目を閉じた。
昨夜……小猫を部屋に呼んだ公月は、こう言った。「このままここで、私の従者として暮らさないか」と。従者というのはどういうものかと小猫が問うと、何もしなくてもいいから従者になるようにとだけ、公月は言ったのだ。
それから一晩。
小猫はずっと、考えていた。
自分はこれから、どうすればいいのかを。
もしも自分がこのままずっと公月の元にいるのならば、真面目に従者になることを考えなければならない。今のこの何の心配もない生活を送ることができるのは、公月のおかげなのだから。
……だけど──と、小猫はきゅっと片方の拳を握り締める。
今、ここで自分が公月の従者になってしまったなら、葎はどうなるのだろうか。
葎とのことは、跡形もなく忘れてしまわなければならないのだろうか。
横柄で、意地悪で、無茶苦茶なことを言うけれど、それでもそんな葎のことが、小猫は好きだった。
幾度となく抱かれたこの身体も、髪も、爪も、何もかもが葎のものだと思っていた。ずっとそう信じていたあの気持ちは、小猫一人の妄想だったのだろうか。
言葉もなく小猫が立ち尽くしていると、公月はその肩にそっと手をやった。
「今までどおりの暮らしをすればいい。他の従者たちと同じように常に私の側にいずとも構わない。ただ……ただ、気が向いた時だけでいい。私の寝所に来てくれれば。それだけだ、私が望むのは」
公月の言葉に、小猫の肩がピクリと跳ね上がる。
「……嫌なのか?」
と、公月は小猫の顔を覗き込む。
小猫は噛んでいた指を離し、公月の瞳を正面から受け止めた。
「葎に、聞いてみないと…──」
葎が戻ってきた。
顔を合わせるのはひとつきぶりだ。
「葎、無事でよかった」
葎は、母屋から少し離れた東屋に部屋をあてがわれていた。
日が暮れるのを待って葎の元を訪れた小猫は、顔を見た瞬間にそう呟いていた。
「私がいないと淋しいか」
葎はそう言うと、小柄な小猫の肩を抱き寄せる。
「淋しかった。葎のいない毎日は味気ないから」
と、小猫は葎の胸にしがみつき、告げた。
葎を見た瞬間から身体が火照っているのは、この後のことを期待しているからだ。愛しい男に抱かれて、今日までの味気なさを埋め合わせてもらわなければならないから。
「そうか」
と、葎は言った。
それから、小猫の顎をくい、と指先で引寄せ、激しい口付けが交わされた。小猫のほうから舌を挿し込み、葎を求めた。
久しぶりに会ったからか、葎はいくらでも小猫の我儘を聞いてくれた。何度も口付けを交わし、互いの唾液で口元が濡れるまで舌でまさぐりあった。
「…はぁ……っ……」
肩のあたりを露わにして、小猫は甘い声を上げる。
葎は、既に用意の整った寝所へと小猫を連れ込むと、一枚一枚、ゆっくりと着物を剥ぎ取っていった。
「ぁっ……葎……!」
手首のあたりで着物の袖をたるませ、どこからともなく取り出した紐で戒めのように縛り上げると、葎は小猫の若い雄を口で愛撫し始めた。
「葎、やめろ……やめろって、こんなの……っあっっ……」
膝を立てて葎の舌先から逃れようとした瞬間、いいところをきゅっと口に包まれ、小猫は動けなくなる。葎の愛撫は確実で、
無駄がない。いつでも小猫を奈落の底へとまっ逆さまに誘っていく。
「どうした、小猫。公月に抱かれでもしたのか」
かくかくと小刻みに震える小猫の膝は、葎の力強い手にがっしりと掴まれている。逃げようとしても、逃げられない。それに小猫には、逃げる気もなかった。逃げれば、葎はどこかへ行ってしまうだろう。自分を捨てて、誰か別の人のところへ。解っていたから、小猫は何をされてもじっと耐えていた。親に捨てられた自分に残されている人は、もう、葎しかいないのだ。
「…なんだよ、それっ? なんで俺が、上様に……」
言いかけた瞬間、胸の突起を葎はぺろりと舐め上げた。
「あぁっ!」
身体を逸らし気味にして、小猫。
「従者になるというのはそういうことに決まっているだろう。どうだった、公月の味は」
言いながら葎は、小猫のいいところを次から次へと愛撫していく。乳首から喉元のあたりを舌先で触れながら、ゆっくりと唇へ辿り着く。触れるか触れないほどの微かな口付けに、焦れた小猫が舌を突き出してきた。
「言ってみろ、小猫。聞いてやる」
そう言うと葎は、小猫の性器にかけた指をゆるゆると動かす。
焦らすように、優しく、そっと。
「やっ……ぁんっ、葎……葎、やだ、やめ……」
ビクビクと小猫が身体震わせる。
「公月は、優しくしてくれたか?」
掌で小猫の性器を包み込むと、葎はその手をわずかに上下させた。快楽を求めて、小猫の腰がゆらりと揺らめく。
「なんで……ぁっ……なんで、そんなこと言う……くぁっ……──」
「いやらしいな」
一言、葎が呟く。
小猫の先端からは、先走りの白い液体が溢れ出していた。涙のようにほろりほろりと零れ落ちるその様を見て、葎は満足げに目を細める。
「馬鹿っ……な…んで……」
目の周りをほんのりと朱色に染めて、小猫は訴える。もう、解放してくれ、と。
唇を噛み締めた瞬間、小猫の目尻からぽろりと涙が一粒、伝い落ち……葎の舌がそれを、受け止めた。
「──まだ、公月には抱かれていないのか?」
泣き出した小猫に、葎は問いかける。
小猫はそっと、葎のほうへとすり寄ってきた。
「上様は、俺の気が向いた時に寝所に来ればいいと……」
まだ少ししゃくりあげながら、小猫が言う。
葎は、そっと小猫の腕の戒めを解いてやった。
「お前は……大人になる必要がある」
低い声で、そう、葎は言う。
「大人に?」
「そうだ」
葎の逞しい腕が、小猫の頭を抱きかかえる。
「それは……大人になるということは、どういうことなんだよ? 上様のものになれということなのか? それとも……」
愛しい男の腕の中でうっとりと目を閉じて、小猫。
「お前はどういうことだと思う?」
と、葎。
抱き締めた腕はそのままに、もう一方の手でそっと小猫の股を割り裂いていく。
「俺は、強くなりたい。葎は俺に、強くなれと言っているのだろう? なあ、そうだろう?」
葎は答えなかった。
答えずに、そのまま黙って小猫を犯した。
先程から昂ぶっていた熱い塊をぐい、と小猫の穴に押し当て、一気に貫いた。
「ぁっ……葎……」
小猫が葎の肩口にしがみついていく。葎は激しく腰を揺さぶり、互いの密着部が擦れあって卑猥な湿った音を立てた。
「はっ……あ、ぁ……強く、なるから……俺、強くなるから……」
甘く掠れた声がとめどなく小猫の口から洩れ続け、部屋の中は一晩中、すすり泣きと精のにおいに満ちていた。
明け方。
公月は人の気配に気付き、身を起こした。隣で眠る若い従者は白魚のような裸体を夜気に晒したまま軽い寝息を立てている。
「葎か?」
御簾の向こうの人影に、公月は問うた。
「私は行くぞ、公月」
影は低い声で、そう告げた。
「別れの言葉もかけずに行くつもりか?」
と、公月。
「構わん。あれは、もうしばらくお前に預けることにした」
葎の言葉に、公月は首を傾げ、考えるふりをした。
「それは……抱いてもいいということか?」
「好きにしろ」
すかさず、葎は言う。
暗がりの中、影だけが公月の目に立ちはだかっている。まるで権力者のように公月を嘲笑っている、実体のない影法師のようだ。
「其方がここに惹かれるのは延珠殿がいるからだとばかり思っていたが、そうではないようだな」
皮肉めかして公月が言うと、葎はふん、と鼻先で小さく笑い飛ばした。
「私は自由の民だ。どこに居座ろうが、私の勝手だ」
影が一歩、公月の寝所に近付いた。
「そうだな。連れ出すにはまだ早いだろうからな、あれでは」
知った顔で公月は言う。
小猫は生命力に満ちていたが、若すぎた。外の世界をあまりにも知らなさすぎるというのもひとつにはあったが、外へ出て、葎と行動を共にするには早すぎる感があった。
それでなのか……──と、公月は納得したような笑みを口元に浮かべる。
それで葎は、小猫を従者にするよう進言したのか、と。従者になり、他の者たちと共にここで知識を蓄えろということなのだろう、おそらく。そうして時期が来れば、再び葎が小猫を、外の世界へと連れ出す。
何と自分勝手で、都合のいい男なのだろう、葎という男は。
「お前が抱いてやるんだ」
葎はそう言うと、御簾に背を向けた。
公月が立ち上がろうとすると、隣で寝ていた従者が眠たげに身じろいだ。
「ああ、眠っておれ。暁にはまだ早い」
公月が若者のうなじを愛撫している間に、影は立ち去ってしまっていた。次に公月が顔を上げた時には、影は、どこにも見当たらなかった。
「あまりにも一途な眼差しをするものだから、つい、戯言を言ってしまったのだ」
ぽつりと、公月は呟き放った。
闇の中、どこかで葎が微かに笑ったような気配が、した──
──END──
(H13.11.19)
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