河岸の魚 2

 目が合ったまま、二人はそのまましばらく佇んでいた。
「……もう、帰らなきゃ」
 直が先に口を開いた。
「ああ……うん、そうだな。もう遅いもんな」
 自分に言い聞かすかのように、高原も言う。
 本当は、このままこの場を立ち去りたくなかった。だが、帰らなければならない。高原はまだ、直の気持ちには気付いていないのだから。
「じゃあな」
 と、高原。
 直は小さく頷いて……そのまま下を向き、ぎゅっと唇を噛み締めた。握った両手は汗でじっとりと湿り気を帯びている。
「また、明日!」
 言い捨てるようにして叫ぶと、直は駆け出した。
 呆気にとられた高原のすぐ脇をすり抜けて、そのまま家へと向かって一目散に走っていく。
「おおーい!」
 直の後方で、高原が大声で何か叫んでいる。
 橋のたもとで立ち止まってみると、鞄を振り回しながら、高原が追いかけてくるところだった。
「馬鹿。鞄、忘れてるぞ」
 にやりと笑って、高原が言った。
 直は肩を決まり悪そうに鞄を受け取ろうと手を差し出す。
 恥ずかしかった。せっかく勇気を出して別れの言葉を口にしたのに、これじゃあ、あんまりだ。泣きそうになりながら直は、高原の手を見つめた。



 直はじっとその場で固まっていた。
 差し出した手が、やけに重みを感じさせる。
 高原は鞄をゆっくりと目の高さに掲げ、直のほうへと差し出した。
「結構おっちょこちょいなんだな」
 くすっ、と高原は笑った。
 直は何も言わずに鞄を受け取る。取っ手の部分を無造作に掴んでいる高原の手には触れないよう、鞄の側面を両手でしっかりと挟み込むようにして持った。
「お前……明日は教室でさ、そうやって笑えよ?」
 そう言って、高原は直の目を覗き込んだ。
「あんまりつんけんしてると、嫌われるゾ」
 さらりと流して、高原は付け加えた。
「えっ……」
 咄嗟に直は、目を丸くして高原を見つめ返す。くりくりとした大きな目は、小動物のようにじっと高原を見つめている。
「教室でさ、お前、誰とも喋んないだろ? 喋りたくないのなら仕方ないけどさ、もうちょっと愛想よくしたほうがいいぜ?」
 せっかくの共学なんだから、と茶化して高原。
 そう言われて直は、心の隅っこにちくちくと痛む小さな棘が刺さったような気がした。
 まさか、高原からそんなことを言われるなんて思ってもいなかったのだ。
 ──愛想よくしたほうがいい、だなんて。



 むっとなって直は、高原を軽く睨み付けた。
「そんなつもりじゃ……」
 言いながらも、声が震え出す。あっ、と思った時にはもう、直の目からは涙がポロポロと零れ落ちていた。
 透明な液体が次から次へと沸き上がり、地面へ向かって落ちていく。
 なんでこんなに悲しいのだろうかと思いながらも、直はじっとその場に立ち尽くしたまま、涙を流した。唇を噛み締めても涙は止まらない。それどころか次第に激しく、堰を切ったように涙は溢れ出し、込み上げてくる。
「──…ごめん、言い過ぎた?」
 焦ったのは高原だ。
 何気なく自分の口にした言葉が直を傷つけたことに驚いて、わたわたとしながら直の顔を覗き込んでは心配そうに「泣くなよ」と声をかけてくる。
 直だって、まさか自分がこれしきのことで泣き出してしまうなんて思ってもいなかった。こんなに大っぴらに、子どものようにしゃくりあげて泣き出すなんて。
「本当にごめんな、仲川。俺、きついこと言った?」
 慌てふためいて尋ねかけてくる高原があまりにも可愛くて、直は泣きながら小さく笑った。不覚だと、心のどこかでぼんやりと思いながら。
「……落ち着くまで……待っててくれる?」
 しゃくり上げながらも何とか直がそう告げると、高原は頷いて草の生い茂った土手に荷物を下ろす。
「じゃあ、座ろう。立ってんのも妙だしな」
 言い訳がましく高原が言い捨て、どさりと地面に座り込む。
 直は頷いて高原の隣に腰を下ろした。


     ※


 土手に腰を下ろすと、高原の腕に直の肘が軽く触れた。
 ちょっと当たっただけなのに、触れた部分を中心に、そこからじわりじわりと熱が伝わってくるような気がする。
 ドキドキと心臓が早鐘を打ち始める。
 それと同時に、ぎゅっと締め付けるような何とも言えない感覚が、直の胸をきりきりとさいなむ。
 高原は黙ってじっと川面を眺めている。
 直に声をかけることもせず、ただ黙って、じっと川の流れを見つめている。
「……ごめんね」
 ようやく涙が止まり、しゃくり上げてくる発作のような波もおさまった頃、直はぽつりと囁くような声で告げた。
 夕焼けは既に山の向こうに溶け込んでしまい、ところどころオレンジの入り混じった紺色の空が山の端を覆い始めている。
「教室では難しそうな顔ばっかしてんのにな。…色んな顔が出来るんじゃん、お前」
 さりげなく高原が言う。
 直は考え込むように頬に手をやって、それからぽつりぽつりと返した。
「難しい顔ってわけじゃないんだ。たくさんの人がいるところって苦手で……ほら、僕、喋るの下手でさ。なんだか怖くって……」
 その直の言葉を庇ってやるかのように、高原は後を続けた。
「だから、いつも難しい顔ばっかしてるのか? 怖いから?」
 直はこくりと頷くと、ちらりと高原のほうへ目をやった。



 だけど、いつも難しい顔してるってわけじゃないんだ…──心の中で直は、ぽそりと訂正する。面と向かって高原に言うだけの勇気は、まだ、なかった。
「もっと色んな顔しろよ。お前が笑ってると、俺もさ、なんか、気分いいから……だから、笑ってろよ。皆と喋って、もっといろんな表情見せてくれよ」
 照れくさそうに高原はそう言って、頭をポリポリと掻いた。
 収束に向かう夕焼けの色はどこかおどろおどろした色合いで、淋しい。
 頷いて直は、握り締めた自分の手をじっと見た。
「……高原がそう言うなら、そうするよ」
 しばらくたってから、直は小さな声でそう返した。高原のことが好きだから。言外に、密かに含んだ直だけの合図を込めて。
 高原は驚いたように直のほうをまじまじと見返した。
「俺が言うからじゃなくてさ……お前、もっと自分でこうしたいとかっての、ないわけ? そんなに人任せにしてて、いいのかよ?」
 矢継ぎ早に高原が言うのに、直は困ったように上目遣いに見上げて言った。
「人任せってわけじゃないと思うよ」
 そうだ。
 何もかも人任せにしているというわけではないのだ。
 高原に関してだけ、直は依存的になってしまう。彼のことが好きだから。彼の言うこと、することなら何でも言うことを聞いてしまいそうになる自分に、直自身、戸惑いを感じてもいた。
 だけど、しょうがない。
 好きなのだ。
 そんな風に思ってしまえるほど、直は高原のことがどうしようもなく好きなのだ。
 直は深い溜息を川面に向かって吐き出すと、ゆっくりと声を出した。
「……高原のことが好きだから、高原に気に入られるようにしたいだけなんだ」



 言ってしまってから直は、しまった、と思った。
 後悔先に立たずというのはこういうことを言うのだな、と胸の隅でちらりと考えたりもした。
 高原は「はあ?」と素っ頓狂な声を出すと、じっと直の顔を覗き込み、それから黙り込んでしまう。
 どうしようかと思っていると、高原が突然、立ち上がった。尻についた泥や草を手で軽くぱんぱん、とはたきながら直に言う。
「もう遅いから帰ろうぜ」
 直は……直も頷いて、立ち上がった。高原と同じように尻についた汚れを叩き落として、鞄を持つ。
 夕焼けは、いつの間にか闇に紛れ込んでいた。
 空には滲んだような紺碧の絵の具が塗り込められ、ところどころで星が瞬き始めている。
「……うん……帰ろっか」
 幾分か肩を落とし気味にして、直は高原に別れを告げる。
 高原はそんな直の肩をポン、と叩いて、にやりと笑った。
「お前の家まで送ってってやるから、少し話そうぜ」


     ※


 夕暮れの道を、直は高原と肩を並べて歩いた。
 まさかこんな日が来るなんて思ってもいなかった。
 自分のこの気持ちは、ずっと胸の内に秘めたままだろうと半分諦め気分でいたのだから、直は。
「──…お前さぁ、いつ頃から俺のこと好きだったんだ?」
 歩き出してすぐに、あっけらかんとした様子で高原は尋ねてきた。直のことをはなから相手にしていないのか、それとも人から「好き」だと言われることに慣れているのか。高原は直のことを意識している風もなく、さっきから一貫して同じ態度でいる。
「そんなの……」
 直は俯いて、唇を噛み締めた。
 いつから、だなんて。
 そんなこと、口には出来ない。
 新学期が始まってすぐのスポーツ大会で即席の応援旗を振り、がらがらの濁声になってもクラスメートを応援し続けたその雄姿に、直は初めて自分が高原のことが好きなのだと知った。
 白い鉢巻を締めた即席の応援団長は、直の目にはとても眩しかった。
 皆をぐいぐいと引っ張っていってくれる高原の姿はある種の潔さを纏っており、頼もしくもあり凛々しかった。
「言えよ」
 そう言って高原は小さく笑う。
 直はぎり、と唇の端を噛んだ。
 言ってしまいたい。自分がどんなに高原のことが好きで、今までずっと、その想いを胸の内に秘めてきたかを。
 だけど……──と、直は今少しのところで思いとどまる。
 口にしてはならない。
 この想いは、口に出してしまえば甘い夢でなくなってしまう。甘い夢から醒めた後の辛さは、直にはとても耐えられそうにない。
 高原の「好き」は、友達の「好き」かもしれない。
 直が望んでいるような形のものではないのかもしれない。
 確認もせずに自分の想いを口にするなんて、直にはできないことだった。
「──ダメ」
 そう言って直は、するりと高原から離れた。
「送ってくれてありがとう。もう一人でも大丈夫だから」



 そう言って高原に背を向けようとした瞬間。
 高原はがし、と直の肩口を抱き竦めた。
 力強い腕に、直は酔ってしまいそうだった。
 夏のにおいを含んだ生ぬるい風が、少し伸びすぎた感のする雑草を揺らしていく。
 直は身体の底から震えが湧き上がってきそうになるのをぐっと堪えて立ち尽くしていた。
「高原?」
 小さな声で窺うように尋ねかけると、あたたかな高原の吐息がふわりと直の耳元を掠めていく。
「お前、可愛いよ。マジで」
 掠れた声で、高原は告げた。
「俺……お前のこと、好きになりそう」



 そんなことを言われて嬉しくないはずがなかった。
 直は背後から回された高原の腕にぎゅっとしがみついていく。
 もう、これが夢でも構わない。たとえ一時だけの幸せだとしても、それでも構わなかった。
「お前の笑った顔が見たい。教室でも、他の場所でも。もっと色んな顔してくれよ。俺、ずっとお前のこと見ててやるからさ」
 と、高原が言うのに、直は必死で頷いていた。
「うん……うん、僕、高原に見せてあげたい。もっともっと、色んな事話したい。遊んだりもしたい。高原と、一緒にいたいんだ、僕」
 まくし立てるようにして直は一息に言った。
 高原はやっぱり掠れた声で小さく返事をして、それから直の後頭部に軽く口付けた。
「見ててやるよ、ずっと」
 と、もう一度、今度は直の耳の後ろに口付ける。
 その頃になると直の心臓は落ち着き初めていて、恥ずかしくなって、口の中でもごもごと何か呟くことしか出来なくなっていた。
「安心しろよ。この先ずっと一緒にいてやるから。お前がいつも笑っていられるように……な」
 それから急に思い出したように高原は直の身体に回した腕を外し、照れたようにくしゃくしゃと頭を掻きながら言った。
「実は、さ…──」



 優しい声だった。
 低くて、少し掠れていて……照れ隠しのためか心持ち俯き気味に、高原は告げた。
「実は俺もさ、お前のこと、気になってたんだ」
 そう言って高原は、ポリポリと頭を掻く。
 直は身体の向きを変えると、高原と向き合った。高原の顔が赤いのは、きっと、直の気のせいなんかではないはずだ。
「ずっと、こうして話ができたら、って思ってたんだけど……なんか、なかなかきっかけが掴めなくてさ」
 ──ごめんな。
 と、高原は小さく呟いた。
 それから急に、目の前の風が揺らいで……気付いた時には、直の目の前に高原の顔が迫っていた。
 あたたかくて、柔らかな感触のものが直の唇を軽く塞いだかと思うと、あっという間に離れていく。
 直は呆然としたまま、立ち尽くしていた。



 あちこちで燈り始めた街灯の白い光が眩しくて、直は目を細めた。
 高原は笑っていた。
 自信に満ち溢れた、優しい笑みだ。
 二人してしばらくそうやって見詰め合っていたが、そのうちにどちらからともなく吹き出し、けらけらと笑い始めた。
「結局……二人して、同じことで悩んでいたんだな」
 高原は、笑いの発作の合間に口早に言った。
「そうだね」
 相槌を打ちながらも直は、まだ腹を抱えている。
「でも、よかった」
 と、高原。
「なにが?」
 直が尋ねると、高原は不意に真面目な顔になって直を見つめ返した。
「仲川も俺のことが好きなんだって分かっただけでも、今日はよかった」
 そう言われて、直も小さく頷き、同意した。
「うん、僕も……」
 それは、直の目に、紺碧の空に瞬く星と、高原の笑みとが焼きついた瞬間でもあった──


     ※


 川岸を歩くと、直はいつも思い出してしまう。
 学生時代に高原と一緒に歩いたあの川岸の小道を。
 あれから何度かの夏を一緒に過ごした。高原が隣にいる夏も、いない夏も体験した。
 そして今も二人は、一緒にこの小道を歩き続けている。
 様々な季節を乗り越え、高原と共に歩んでいくことを決めたのはつい一昨年前のことだ。
 後悔はしていないと、直は思う。
 高原と共に歩く道は決して平坦な道ではないけれど、それでも直は、高原と行けるところまで行ってみようと思っていた。
 ただ、何かが変わるのを待っているだけの人生ではなくて、自分から何かを変えていく人生を歩んでみたい。あの時、自分の気持ちを素直に高原に告げることができたからこそ、今の直はある。その時の自分を忘れずにいることができたなら、きっと、能動的な生き方ができるはずだと直は信じていた。



 ふと空を見上げると、夜空に星が煌いていた。
 隣を歩く高原を見遣ると、澄ました表情でまっすぐ前を見ている。
 黙って直が高原の顔を見つめていると、すぐに視線に気付いた高原は立ち止まって尋ねかけた。
「なんだよ、直」
 いつの間にか高原は、落ち着いた雰囲気のいい年をした大人になっている。直のほうも体格的には少しは成長したのだが、相変わらずの童顔で、高原と一緒にいるといつも年下に見られてしまう。別に悪いことじゃないから気にするなと高原は言うが、それでも直にはコンプレックスの一因として数え上げることができた。
「ううん、何も」
 と、返しながら直は小さく口元に笑みを浮かべる。
「高原って、いい男だな……って、思ってさ」
「何だよ、急に。気持ち悪い奴だな」
 高原は苦笑いをしながらも直を見つめている。
 直よりも目線ひとつ分もふたつ分も背の高い高原は、すらりとしてしなやかな体型の女性たちからのお誘いがかかることも多い。羨ましいとは思わなかったが、高原が自分を置いて誰か知らない女性のところへ走る日がいつか来るのではないかと、直は密かに恐れてもいる。
 それはそれでいいと開き直るまでに随分と時間がかかった。
 別れたほうがいいのだろうかと悩んだこともあるし、男同士の不毛さに自分が嫌になったこともある。周囲の人間が信じられなくなったこともあったし、開き直った今もまだ、高原が自分の側にいつまでいてくれるか解らずに不安になる夜がある。
 それでも、直は随分と強くなった。
 自分が、高原と一緒に歩いていくのだと決心した日から、直はどんどん強くなっている。
 不安も恐れも何もかもひっくるめたそのままの自分が、高原を好きなのだと気付いた──つまり、開き直ったから、だ。
「ねえ。手、繋ごうか」
 今、二人は一緒に歩いているのだと実感したくて、直は高原のほうへと手を差し出した。
 繋いだ手はそのままに、いったい、二人はどこまで歩いていくことができるだろうか。どこまででも、などと直は思わない。ただ、まだしばらくはこのままで、二人が一緒に歩いていくことができればと願っている。
 そんなささやかな願いを胸に、今日も二人は川岸の小道を歩いていくのだった。



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END
(H14.9.21)
(H25.1.19改稿)



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