Misfire

  僕の前には、彼がいる。
  ただひたすらにコースを走る僕の目の前には、真っ白な体操着の彼の背中と、こっちを振り返った力強い眼差し。
  砂煙を上げて、僕は走る。
  風のように、空気のように、駆け抜ける。
  彼の元へ。
  時折、空白の僕の頭の中に応援の喚声が聞こえてくる。言葉にはならない、たくさんの声。いちどきに僕の頭の中に入り込み、意味を成すこともなく消えていく言葉たち。
  それよりも僕は、走ることに集中していて……。
  走れ、走れ、走れ……!
  僕の心臓が叫んでいる。
  彼の元へ、死ぬ気で走れと叫び続けている。
  これが最後の体育祭だから、一度ぐらいいいトコ見せてみろよ。そんな風に、僕の心臓が叫んでいる。
  そうだ。
  走らなきゃ。
  クラスの優勝のためとか、トップでアンカーにバトンを渡すとか、本当はそんなことどうでもいいんだ、僕にとっては。
  それよりも。
  彼に届け、このキモチ。
  彼を好きだという、僕のことキモチを、誰よりも速く走ることで伝えたい。
  彼に、今すぐにでも伝えたいんだ。
  だから僕は、死ぬ気で走る。
  彼の元へ。
  誰も追いつくことの出来ない、一人きりのコースを死ぬ気で走っている。
  待ったはなしだ。
  もう、僕には後がない。
  これが最後の体育祭。
  高校三年の体育祭は、この一度きりで最後なんだから。



  ドクン、ドクン、ドクン……。
  心臓が高鳴る。
  バトンを握り締め、僕はコースを走る。
  目の前には、彼。
  身体は前を向いて、だけど手は僕のほうへ出来る限り差し出して、バトンを受け取ろうと待ち構えている。
「吉崎!」
  彼が僕の名前を呼ぶ。
  僕は手を伸ばして、バトンを差し伸べる。
  足を……右足、左足と交互に地面を蹴って、死ぬ気で走って……。
  死ぬ気で、走って…──
  バトンを彼に手渡す瞬間、ドン、と何かが僕の背中に当たったような衝撃を受けた。いや、違う。僕は突き飛ばされたんだ。



  ──わあぁぁっ……!
  喚声が耳に響く。
  はっと顔を上げると、僕は無様に地面に叩きつけられていた。
  後ろから来た二番手の走者に突き飛ばされて、僕は転んだんだ。
  彼が恨めしそうに僕の顔を睨み付けている。
  僕は慌てて立ち上がり、彼のところへ歩み寄った。今さら走ったって、無駄だった。
  僕が転倒している間に後続の走者はあっという間にやってきて、次の走者にバトンを手渡して自分たちの位置へと戻っていった。
  コースに残っているのは、僕と彼の二人だけ。
  僕は目頭が熱くなるのをぐっと押し堪えて、彼にバトンを手渡した。



  擦り剥いた膝には血が滲んでいる。
  だけどそれ以上に、僕の心は傷付いていた。
  彼にバトンを手渡すことが出来なかった無念さが、僕の胸の中で渦巻いている。
  僕は僕なりに頑張ったんだ。
  死に物狂いで自分のコースを駆け抜けた。
  だけど、いくらそんなこと言ったって、仕方がない。
  トップで彼にバトンを手渡すことが出来なかったのだから。
  僕の体育祭は、終わってしまった。
  彼に僕のこのキモチを伝えようと必死になったあの時間は、叶うことなく終わってしまったのだ。
  僕の心は鮮やかな朱色の液体を流しながら、泣いていた。
  伝えられなかったこのキモチを、どうやって殺せばいいのだろう。
  どうやってこれから、日々を過ごしていけばいいのだろう。
  競技を終えた僕は、トボトボと自分の場所に戻っていった。
  自分の場所に戻った僕は、膝の怪我を口実にすると逃げるようにして保健室へと向かった。
  一階の運動場を見渡せる場所に位置する保健室で膝にオキシドールでもかけてもらったら、うんざりとする嫌な気分も少しはマシになるかもしれないと思ったから。
  肩を落として保健室のドアに手をかけようとした瞬間、背後から肩を掴まれた。
「足、大丈夫か?」
  彼……だった。
  僕は驚いて後退った。
  ドアに肩が触れて、ガタン、と小さな音が響いた。
「転んだのは残念だけどさ、お前、走るのすげぇ速かったな」
  にやり、と笑って彼が言う。
  僕はぼんやりと彼の言葉を聞いている。
  なんで彼がここにいるのだろう。転倒した僕に呆れてしまって、もう声もかけてもらえないんじゃないかと思っていたのに……それなのに何故、彼は僕に声をかけてくれるのだろう。
  彼の顔をもっと見ていたかったけれど、恥ずかしさから僕は、彼の日に焼けた喉元をじっと見つめていた。彼が喋るたびに喉が上下して、僕はそれだけでなんだか気恥ずかしくなっていく。
「救急班は実行委員のテントの隣に控えてるから、ここには誰もいないって知ってた?」
  と、彼は僕の顔を覗き込んで言った。
「えっ……?」
  弾かれたように顔を上げると、彼の目と合った。強い意志を秘めた眼差しは、神妙そうに僕を見つめている。
「お前の走り、格好良かったぜ」
  彼が言った。
「……ありがとう」
  僕は、それだけ言うのがやっとだった。



  僕の高校最後の体育祭は呆気なく幕を閉じた。
  だけど、彼との日々は、始まったばかりだ。
  あの後。
  彼は僕の走りに惚れたと言ってくれた。
  邪心などない素直な言葉だっただけに、僕は今まで以上に彼に心を奪われてしまった。
  それから、誰もいない保健室で、二人きりの残念会をした。
  学食の側に設置された自動販売機でスポーツドリンクを買ってきてくれた彼と、二人で祝杯(?)を上げた。
  僕が勢いづいて彼に「好きだ」と言うと、彼は照れたように目元をちょっと赤らめた。
「俺も……吉崎のこと、好きかもしれない」
  運動場からは、まだ喚声が響いてきている。
  僕は俯いて、頷いた。
  彼の言葉が真実でなくても、嬉しかった。
  彼は彼なりのやり方で、僕に素敵な残念賞をくれたのだ。
「……お前はどうなんだよ、吉崎」
  彼はそう言って、僕の肩に手を置いた。



  それから。
  それから僕らは、軽く唇に触れるだけのキスをした。
  運動場からの喚声は、僕ら二人を祝福してくれているようだった。
  彼は僕のことを好きかもしれないと言った。
  僕に、キスをしてくれた。
  それでも僕の心の中の傷は、今すぐに癒えることはないだろう。
  彼にバトンを手渡すことが出来なかったというその事実が、僕の心に傷をつけた。
  小さな小さな傷。
  それをこれから、彼と二人で治していけたらいいなと、僕は思う。
  彼と、二人で……。



END
(H14.9.20)
(H24.4.22改稿)



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